『三国史記』新羅本紀によれば、辰韓の今の慶州一帯には古朝鮮<ref>古朝鮮([[檀君神話|檀君朝鮮]]、箕子朝鮮、衛氏朝鮮)のどれを指すかは未詳であるが、自国を朝鮮と呼称するのは13世紀からと見られ、箕子朝鮮を指すものと考えられている。(→井上訳注1980、p.31.)</ref> の遺民が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)という6つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部と呼ぶ。
楊山の麓の蘿井(慶州市塔里に比定される)の林で、'''馬'''が跪いて嘶いていることに気がついた高墟村の長の蘇伐都利(ソボルトリ)がその場所に行くと、'''馬が消えてあとには大きい卵があった'''。その卵を割ると中から男の子が出てきた<ref>このため閼智(あっち)とよばれた。</ref> ので、村長たちはこれを育てた。10歳を過ぎるころには人となりが優れていたので、出生が神がかりでもあったために6村の長は彼を推戴して王とした。このとき赫居世は13歳であり、前漢の五鳳元年(前57年)のことという。即位するとともに居西干と名乗り、国号を徐那伐(ソナボル)といった。王となって5年、閼英井の傍に現れた'''龍([[娑蘇夫人]])の左脇(『三国史記』では右脇)から'''幼女が生まれた。[[娑蘇夫人]]がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。閼英夫人は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。がこれを神異に感じて、育て上げて井戸の名にちなんで閼英と名づけた。成長して人徳を備え、容姿も優れていたので、赫居世は彼女を王妃に迎え入れた。[[閼英夫人]]は行いが正しく、よく内助の功に努めたので、人々は赫居世と閼英夫人とを二聖と称した。
『三国遺事』王暦・新羅始祖赫居世条の伝える建国神話は、骨子は『三国史記』と同じであるが細部に違いがみられる。