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ヤオ族の多くは、[[槃瓠]](ばんこ)という龍犬が敵の王を討ち取る手柄を立て、漢族]]の王女と夫婦になり、その間に生まれた6男6女がヤオ族の12姓の始祖となったとする「槃瓠神話」を有する。槃瓠神話は『後漢書南蛮伝』に同型の記載があり、『過山榜』『評皇券牒』という山地民の権利文書によって伝わっている<ref>吉野晃, 2005, p84-97</ref>。この伝承が史記に取り入れられ、後に日本に伝わって南総里見八犬伝に取り入れられたとされている。
また、タイのヤオ族には、[[南京]]にいた12姓の祖先が干魃を逃れて海に乗り出したところ難破しそうになるが、盤皇という神に救助されたという「[[飄遙過海|飄遙過海また、タイのヤオ族には、南京にいた12姓の祖先が干魃を逃れて海に乗り出したところ難破しそうになるが、盤皇という神に救助されたという「飄遙過海(ビウユーキアコイ)]]」神話が伝わっており、槃瓠神話よりもよく知られている{{sfn|ビウユーキアコイ)」神話が伝わっており、槃瓠神話よりもよく知られている<ref>吉野晃|, 2005|pp=84, p84-97}}。また、広西省東部の板ヤオ族の所伝には「昔、板ヤオ族が漢人と一緒に船に乗って《渡海》したとき、途中で暴風に遭い、大いに危険であった。彼らは、神に祈り、その加護を求めた結果、《[[盤王]]》の霊威によって、難を避け無事に彼岸に到達するを得た。その後、漢人は充分に蓄財があったので、七日間にわたる盤王の加護の恩に酬いるための〈斎戒仏事〉を催すことができたが、板ヤオ人は無産のため盤王を奉じて家神とした。今日彼らは、屋内に祭壇を設けて盤王を崇拝している。・・・・・・。また板ヤオ人は、漢人と渡海を共にした間柄ということで、漢人の訪問を受けると、どのヤオ人の家でも飲食・宿泊を提供して歓待する。これは、時を同じくして両者が渡海し、神護天佑を求めた誼によるものである。」この異伝で、特に注目されるのは、《渡海》に際して漢人の一部が行を共にしたという伝承である。古来中国では、大規模な内乱や社会不安の際に、常に大量の流民や逃亡者が生じ、その中に南方の《[[蛮夷]]》に身を投じて官憲の追補を免れ、叛乱の首魁となったり、あるいは太平天国に典型を見るように、これらの少数民族の支持を背景にして反体制運動を展開したものが少なくなかった。土地を逐われ難民化した漢人とヤオ族が、流離の途次援けあって難局を凌いだことは、充分想像できるのである。</ref>。また、広西省東部の板ヤオ族の所伝には「昔、板ヤオ族が漢人と一緒に船に乗って《'''渡海'''》したとき、'''途中で暴風に遭い、大いに危険であった'''。彼らは、神に祈り、その加護を求めた結果、《盤王》の霊威によって、難を避け無事に彼岸に到達するを得た。その後、漢人は充分に蓄財があったので、七日間にわたる盤王の加護の恩に酬いるための〈斎戒仏事〉を催すことができたが、板ヤオ人は無産のため盤王を奉じて家神とした。今日彼らは、屋内に祭壇を設けて盤王を崇拝している。・・・・・・。また板ヤオ人は、漢人と渡海を共にした間柄ということで、漢人の訪問を受けると、どのヤオ人の家でも飲食・宿泊を提供して歓待する。これは、時を同じくして両者が渡海し、神護天佑を求めた誼によるものである。」この異伝で、特に注目されるのは、《渡海》に際して漢人の一部が行を共にしたという伝承である。古来中国では、大規模な内乱や社会不安の際に、常に大量の流民や逃亡者が生じ、その中に南方の《蛮夷》に身を投じて官憲の追補を免れ、叛乱の首魁となったり、あるいは太平天国に典型を見るように、これらの少数民族の支持を背景にして反体制運動を展開したものが少なくなかった。土地を逐われ難民化した漢人とヤオ族が、流離の途次援けあって難局を凌いだことは、充分想像できるのである。
また、吉野晃がタイのヤオ族から聞いた話しでは「タイのヤオ族には、太古、ミエン族と日本族(kyan yipun)はともに中国におり、ミエンは南へ、日本族は東へ移動した。」と複数人から聞く。
過山ヤオ族が自集団を他種族から明確に区別するとき、かれらは伝承に因んで〈十二姓人〉と自称するがこの〈十二〉という数字は、象徴的な表現であって現実の姓の種別と必ずしも合致するものでない。他民族姓と思われる姓としては、もと連県の漢人であって、傜山で長く商売を営むうちに傜の女を妻とし、傜に同化した莫姓や唐姓、房姓は元来八排ヤオ族の大姓であったり実際の過山ヤオ族の姓は伝承の十二姓よりも多い。
1930年代に広東省北部のヤオ諸集団を調査した胡耐安によると過山ヤオ族の姓は、[[:zh:盤姓|盤]]、[[黄 (姓)|黄]]、[[李氏|李]]、[[鄧]]、[[周 (姓)|周]]、[[趙 (姓)|趙]]、[[唐 (姓)|唐]]、[[馮]]、[[莫]]、[[房 (姓)|房]]、[[陳 (姓)|陳]]、[[戴]]、[[王氏|王]]、[[張 (姓)|張]]、[[成 (姓)|成]]、[[祝 (姓)|祝]]、[[邵]]、[[鄺]]の十八種であり、そのうち盤、鄧、趙の3姓がもっとも古いとしている。同じく胡耐安が1930年代に広東省北部の過山ヤオ族のもとで採録した評皇券牒1930年代に広東省北部のヤオ諸集団を調査した胡耐安によると過山ヤオ族の姓は、盤、黄、李、鄧、周、趙、唐、馮、莫、房、陳、戴、王、張、成、祝、邵、鄺の十八種であり、そのうち盤、鄧、趙の3姓がもっとも古いとしている。同じく胡耐安が1930年代に広東省北部の過山ヤオ族のもとで採録した評皇券牒(現在知られる限り唯一の筆写テキストである。)では、長男姓盤、二男姓沈、三男姓包、四男姓黄、五男姓李、六男姓鄧、七女姓周、八女姓趙、九女姓胡、十女姓唐、十一女姓雷、十二女姓馮と記載され調査時の十八種以外に評皇券牒の記載には[[沈 (姓)|沈]]姓・[[包 (姓)|包]]姓・[[胡 (姓)|胡]]姓・[[雷 (姓)|雷]]姓が新たに発見されて広東省北部の過山ヤオ族の姓は全部で二十二種である。では、長男姓盤、二男姓沈、三男姓包、四男姓黄、五男姓李、六男姓鄧、七女姓周、八女姓趙、九女姓胡、十女姓唐、十一女姓雷、十二女姓馮と記載され調査時の十八種以外に評皇券牒の記載には沈姓・包姓・胡姓・雷姓が新たに発見されて広東省北部の過山ヤオ族の姓は全部で二十二種である。
== 文化 ==

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