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、 2024年11月18日 (月)
'''徐偃王'''(じょえんおう)は、中国徐国の政治家。『後漢書』の注釈を完成させた唐章懐太子は、徐偃王の部分の注に『博物志 (張華)』を引用、徐偃王物語を記している<ref name="奥田尚52">奥田尚, 徐の偃王物語と夫余の東明王物語, アジア文化学科年報 2, 追手門学院大学文学部アジア文化学科, 1999-11-01, p52</ref>。
== 概要 ==
『後漢書』東夷伝に「管・蔡は周に畔き、すなわち夷狄を招き誘う。周公これを征し、遂に東夷定まる。康王の時、粛慎また至る。後に徐夷、僭号し、すなわち九夷を率いて以て宗周を伐ち、西して河の上に至る。穆王、そのまさに熾んなるを畏れ、すなわち東方諸侯を分かち、徐偃王に命じてこれを主せしむ」とある<ref name="奥田尚52"/>。管は河南省鄭州の地で周武王の弟の管叔鮮が封じられ、蔡は上蔡の地で管叔鮮の弟の蔡叔度が封じられた。管叔鮮と蔡叔度は周武王の死後、殷紂王の子の武庚禄父とともに、周成王と周公旦らに反乱を起こしたが、平定された。徐夷が僭号したとあるが、徐は現在の邳州市付近の広域地で、'''徐地域の支配者が周の支配に反乱し、徐偃王を名のって周から自立した'''<ref name="奥田尚52"/>。徐偃王は東夷の九夷を率いて周を攻め、周穆王は、徐偃王の軍勢が強力であるのを恐れて、東方に封じていた諸侯を分けて徐偃王に属させた。
== 徐偃王物語 ==
[[張華]]が著した『{{仮リンク|博物志|zh|博物志 (張華)}}』「異聞」に、徐偃王物語が記載されている。
{{quotation|{{lang|zh-Hant|《徐偃王誌》云:徐君宮人娠而生卵,以為不祥,棄之水濱。獨孤母有犬名鵠蒼,獵於水濱,得所棄卵,銜以東歸。獨孤母以為異,覆暖之,遂烰成兒,生時正偃,故以為名。徐君宮中聞之,乃更録取。長而仁智,襲君徐國,後鵠蒼臨死生角而九尾,實黄龍也。偃王又葬之徐界中,今見云狗壟 。}}<br/>
<br/>徐国の宮人が妊娠して卵を生んだが、不詳として水辺に棄てられた。独孤母という老婆は鵠蒼という名の犬を飼っていたが、この犬が卵を見つけ、くわえて帰ってきた。独孤母は大変不思議に思ったが、覆うようにしてその卵を暖めたところ、遂に孵化して子どもが生まれた。生まれた時がちょうど昼頃だったため、「偃」と名付けた。宮中ではこの話を聞きつけ、引き取って養育することになった。偃は成長し、仁義と英知に溢れた大人になったため、徐国の君主として跡を嗣いだ。後に、あの犬の鵠蒼が死ぬ前、角が生え九つの尻尾を持つ黄龍に変身したという。又偃王が亡くなってから、徐の国の界に葬ったが、今もそこに狗の墓があるという<ref>{{Cite book|和書|author=[[項青]]|date=2018-06|title=百越文化圏における卵生説話の源流考 : 龍母伝説を中心に|series=熊本学園大学文学・言語学論集 24・25(2・1)|publisher=[[熊本学園大学文学・言語学論集編集会議]]|page=107}}</ref>。|張華|博物志}}{{Wikisourcelang|zh|博物志/卷之七}}
# [[徐 (春秋)|徐君]]の[[宮人]]は[[妊娠]]して[[卵]]を生んだ。これを不詳とみなして、卵を水辺に棄てた<ref name="奥田尚57-58"/>。
# [[孤児]]や独り身の者たちを母のように養育する者がおり、彼女は鵠蒼という名の[[イヌ|犬]]を飼っていた。[[鵠蒼]]は水辺に食を求めて、棄てられていた卵をくわえて彼女のところへ戻った。彼女は不思議に思い、卵を覆うようにして暖めた<ref name="奥田尚57-58"/>。
# 卵から子が生まれたが、通常の子と違い寝そべるように横たわって生まれたため、名を偃(横たわる)とつけた<ref name="奥田尚57-58"/>。
# 徐君の[[宮殿|宮廷]]はそのことを聞き、子の誕生の次第を調べたうえで、宮中に迎えて養育した<ref name="奥田尚57-58"/>。
# 子は成長すると仁智を備え、先代の徐君の後をつぎ徐国の君となった<ref name="奥田尚57-58"/>。
# その後、鵠蒼は死に臨んで、頭には角が生え、尾は九尾となり、[[黄竜]]の化身だった。鵠蒼のまたの名は后蒼であり、偃王が鵠蒼を葬った場所は、徐国のなかであり、現在も「狗壟」が残っている<ref name="奥田尚57-58"/>。
# 徐王が国を治めにつれ、その仁義は有名となり、偃王は[[周]]へ船で行きたいと思い、[[陳 (春秋)|陳]]と[[蔡]]の間に溝([[運河]])を通じさせたが、その時に朱色の弓矢を得た。その弓矢を得たことで、天瑞を得ることができたとして、自分の名を号として徐偃王と自称した<ref name="奥田尚57-58"/>。
# 付近の淮・江の諸侯で偃王に服従する者が三十六国に及んだ。天下を支配していた[[穆王 (周)|穆王]]はこれを聞き、使者を[[楚 (春秋)|楚]]に派遣して偃王を伐たせた。偃王は愛民の心があり闘わずして、楚に敗北した<ref name="奥田尚57-58"/>。
# 敗北した偃王は北走し、[[彭城郡|彭城]][[邳州市|武原県]]に逃れた。万を超える人びとが偃王に随って移住した。それでその山の名を徐山とし、その山上に石室の[[廟]]をたてた<ref name="奥田尚57-58"/>。
# 廟には[[霊魂|神霊]]が宿り、人びとは祈るときには文を書いて[[割符]]のようにするというが、世代を隔てた古いことなので詳細を明らかにし難い。徐城の外には徐君の墓があり、昔、[[季札]]はその場所で剣を解いたが、それは心の許すところに違いたくないということからである<ref name="奥田尚57-58">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=アジア文化学科年報 2|publisher=[[追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=1999-11-01|page=57-58}}</ref>。
== 伝承 ==
徐偃王物語に直接関係する部分は残されていないが、『[[竹書紀年]]』穆王三七年条に「伐楚。大起九師。東至於九江。比黿鼉以為梁」とあり、[[穆王 (楚)|穆王]]は[[カメ|大亀]]や[[ワニ|大鰐]]を叱りつけて梁すなわち橋をつくらせる話がある<ref name="奥田尚59-60"/>。[[袁珂]]はこの話は[[楚 (春秋)|楚]]を伐つ時のことではなく、徐偃王打倒の時とする説を支持しており、徐偃王物語には穆王との戦いの場面があり、大亀や大鰐が橋をつくる話が元来は存在していた可能性がある<ref name="奥田尚59-60">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=アジア文化学科年報 2|publisher=[[追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=1999-11-01|page=59-60}}</ref>。
== 考証 ==
[[殷周革命|殷末周初]]の[[東夷]]を解明した古典的かつ基本的な研究に、[[貝塚茂樹]]の研究がある<ref name="奥田尚61-62"/>。[[周]][[武王 (周)|武王]]は[[殷]][[帝辛|紂王]]を打倒したが、殷の[[祭|祭祀]]は殷の旧領土に封じた武王の子の[[武庚禄父]]に継承させた。[[武庚禄父]]を一人の人名とする『[[史記]]』の説があるが、『[[論衡]]』などの二人の人名説が妥当である<ref name="奥田尚61-62"/>。[[武庚]]は殷の故都([[安陽市|安陽]])に封じられ、[[禄父]]は[[梁山泊|梁山]]出土の[[銅器]]の[[金石文|銘文]]からみて、梁山に封じられた。武庚は周に反乱、禄父も加担したが、[[周公旦]]や[[召公奭]]に平定された。周公旦や召公奭は、[[山東半島|山東]][[渤海 (海域)|渤海]]まで遠征、恩賞として[[周]][[成王 (周)|成王]]は召公奭に徐地域を与えたが、実際に徐地域を支配したのは、召公奭の長男の[[燕侯克|燕侯]]=匽侯旨であり、[[燕侯克|燕侯]]=匽侯の号である「燕(えん)」「匽(えん)」は、旨が拠点とした「[[奄]]」([[魯]]の近隣)の「奄(えん)」による。[[燕国]]出土銅器の銘文は「燕」を「匽」と記している。この匽侯旨が投影、伝説化されたのが徐偃王である<ref name="奥田尚61-62"/>。召公奭は、『[[史記]]』に[[燕国]]に封じられたとあるが、[[易州]]出土の銅器の銘文からみて、これは燕侯旨が易州に封じられた史実を修飾したものである。燕侯旨が易州に移封されたのは、[[周公旦]]の長子の[[伯禽]]が匽つまり奄に封じられたためである。『[[史記]]』は[[周公旦]]が魯(匽つまり奄)に封じられたとするが、これは伯禽の史実を背景とする修飾である<ref name="奥田尚61-62"/>。
周初に[[梁山泊|梁山]]地域に封じられた燕侯=匽侯旨が伝説化されたのが偃王物語の徐偃王である<ref name="奥田尚61-62">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=アジア文化学科年報 2|publisher=[[追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=1999-11-01|page=61-62}}</ref>。燕侯旨が[[燕国]]南部の[[易州]]に移封されると、旨の伝説的投影像である徐偃王物語も[[燕国]]に広まる<ref name="奥田尚62"/>。さらに燕国が[[遼西]]から[[遼東半島|遼東]]へと支配を広げるに従い、徐偃王物語の伝達範囲も広がる<ref name="奥田尚62">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=アジア文化学科年報 2|publisher=[[追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=1999-11-01|page=62}}</ref>。
徐偃王物語は「[[卵生神話|卵生説話]]」であるが、[[三品彰英]]によりその分布や意味が検討されており、「[[卵生神話|卵生説話]]」は[[インドネシア]]を中心に、中国沿岸部から[[朝鮮半島]]、[[北東アジア]]に分布し、中国沿岸部は[[東夷]]と南方系住民が境を接して居住、この地域一帯に「卵生神話」などの海洋民族文化が流布していた<ref name="奥田尚58-59"/>。それが[[春秋戦国時代]]から[[漢民族|漢人]]が東進してきたため、東夷は北へ、南方系は南へ押し分けられた<ref name="奥田尚58-59">{{Cite book|和書|author=[[奥田尚]]|title=徐の偃王物語と夫余の東明王物語|series=アジア文化学科年報 2|publisher=[[追手門学院大学文学部アジア文化学科]]|date=1999-11-01|page=58-59}}</ref>。また[[殷]]は[[東夷]]といわれ、「卵生神話」はこの地域に存在した可能性もある<ref name="奥田尚61-62"/>。
[[林泰輔]]は、[[朝鮮]]の「[[卵生神話|卵生説話]]」([[赫居世居西干]]、[[東明聖王|鄒牟王]]、[[首露王]]、[[朝鮮の君主一覧#伽耶|五伽耶王]]、[[脱解尼師今]])と『[[賢愚経]]』『[[法苑珠林]]』『[[新唐書]]』『[[大越史記全書]]』『[[山海経]]』『[[大明一統志]]』『{{仮リンク|博物志|zh|博物志 (張華)}}』『[[後漢書]]』などにみられる[[インド]]古代伝説との類似性、および『[[三国遺事]]』に抄録された『{{仮リンク|駕洛国記|ko|가락국기}}』に記される[[伽耶#加羅諸国|金官加羅国]]の始祖[[首露王]]の夫人の[[許黄玉]]が[[天竺]]阿踰陀国の王女であることを根拠にして、「古代に[[インド|インド人]]が[[マラッカ海峡|馬剌加海峡]]を渡って東方に交通し、ついに朝鮮半島の南岸に[[伽耶|加羅国]]を開いた」と述べ、[[伽耶|加羅]]は[[インド|インド人]]が切り開いたと指摘しており<ref>{{Cite book|和書|author=[[林泰輔]]|date=1927|title=加羅の起源続考|series=支那上代之研究|publisher=[[光風館書店]]}}</ref>、関連して、[[林泰輔]]は、[[張華]]が著した『{{仮リンク|博物志|zh|博物志 (張華)}}』にみられる徐偃王の[[卵生神話|卵生説話]]におけるインド古代伝説との類似性から、中国もまたインドから流れてきたものと指摘している<ref name="李萬烈">{{Cite news|author=[[李萬烈]]|date=2005-06|title=近現代韓日関係研究史―日本人の韓国史研究を中心に―|publisher=[[日韓歴史共同研究]]|newspaper=日韓歴史共同研究報告書(第1期)|url=http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150908121743/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/3/12-0k_lmy_j.pdf|format=PDF|archivedate=2015-09-08|page=228-229}}</ref>。
== 脚注 ==
{{DEFAULTSORT:しよえんおう}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:犬祖伝説]]