このように民話・神話に親しんでいた管理人でしたが、最近、特に日本の伝承に気がついたことがあります。日本の標準的な「神話」といえば古事記がすぐに浮かびますが、各地の神社には古事記に出てこないようなローカルな神が祀られていたり、それに伴う伝承を持っていたりします。また歴史的に日本では、神社を形成している神道的な信仰が古く、仏教はそれよりも新しい宗教概念であることが明らかなのですが、古い神社の縁起譚を見ると、古くは神話的な縁起譚であったものが、古代末期から中世にかけて次第に仏教的な縁起譚に変わっているものが見られるのです。そして、それがその神社だけでなく、広くその地方の宗教状況を見ていくと、伝承が宗教的に包括して形成されており、まるで誰かが意図してデザインしたかのように、縁起譚を含む地方の伝承が形作られているかのように感じられることがあるのです。伝承や神話は、「'''古くから語り継がれているもので民族の古くからの精神世界を示すものである'''」という考えを私は子供の頃から持っていたのですが、この考えが根本から覆されました。誰かが、その時代の宗教や政治の状況に都合の良いように伝承を書き換えているのであれば、それは'''伝統文化'''ではなくて、'''フィクション'''とか'''プロパガンダ'''であるからです。
そして、私の出身地である長野市信州新町には、「'''キジも鳴かずば'''」や「'''泉小太郎'''」のように何かを犠牲にして事業を成すような伝承が目立つように感じるのです。これらの伝承は遙か古代の先祖の時代から語り継がれた伝承の要素も含まれているかもしれませんが、もっと時代の下った中世以後の政治的プロパガンダ的要素も含んでいるかもしれない、と始めて感じました。そして、含んでいるのなら、その目的はなんなのだろう? と思うのです。そこには伝統を大切にする気持ちではなく、現代の感覚に通じるような現実的な意図があるはずです。
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