巫山神女
楚の宋玉の「高唐賦」(『文選』所収)序に、楚の懐王が高唐(楚の雲夢沢(云梦泽)にあった台館)に遊んだ際、疲れて昼寝していると、夢の中に「巫山の女(むすめ)」と名乗る女が現れて王の寵愛を受けた、という記述がある。彼女は立ち去る際、王に「私は巫山の南の、険しい峰の頂に住んでおります。朝は雲となり、夕べは雨となり(旦為朝雲、暮為行雨)、朝な夕な、この楼台のもとに参るでしょう」[1]と告げた[私注 1]。
この故事から、「巫山の雲雨」あるいは「朝雲暮雨」は、男女が夢の中で契りを結ぶこと、あるいは男女の情交を意味する故事語として用いられるようになった[2][3][4]。なお、雲夢沢は現在の湖北省武漢市から荊州市にかけての長江北岸一帯にあった沼沢地で、巫山とは離れすぎているため、この賦の舞台は現在の巫山ではなく、現在の湖北省漢川市の南方である、とする説もある[5]。
目次
懐王について
懐王(かいおう)は、中国戦国時代の楚の王(在位:紀元前328年 - 紀元前299年)である。姓は羋、氏は熊。諱は槐。
秦の張儀の謀略に引きずり回され、国力を消耗し、最後は秦との戦いに敗れ秦に幽閉されたまま死去した。戦国時代の暗君の代名詞的存在と目され、楚の悲劇の象徴とされた。
孫(一説に玄孫)が、項梁に反秦軍の象徴として担ぎ出され即位するも、実権を持たず、疎んじられたすえに殺された、同様に懐王と呼ばれた後の義帝である。
神女について
襄陽耆旧伝
李善の引用する『襄陽耆旧伝[6]』では、瑤姫は赤帝(炎帝神農)[注釈 1][7]の末娘とされている[8][9]。「未婚のまま死去して巫山に祀られた」と『襄陽耆旧伝』に記載されていたのであろう。
「高唐賦」
『文選』[10]所収の「高唐賦」では自ら単に「巫山之女」と名乗るだけである。
李善注
『文選』所収の江淹「別賦」李善注[11]に引く「高唐賦」、および江淹「雑体詩」李善注に引く『宋玉集』では、帝の季女(末娘)で、名を瑤姫といい、未婚のまま死去して巫山に祀られたと説明されている[12][13][14]。
墉城集仙録
後代の伝承であるが、後蜀の杜光庭の『墉城集仙録[15]』では、雲華夫人こと瑤姫は西王母の第23女で、禹の后となったとされる[16]。中華民国の学者・聞一多は、この伝承を詳細に分析し、高唐神女は本来は楚の始祖女神であって、高唐神女、夏の始祖・女媧、禹の后・塗山氏、殷の始祖・簡狄は、もともと同一の伝承から分化したものではないか、と推測している[17]。
私的解説
巫山神女はまず「始祖女神」ではない。懐王は神話的には「雨水の豊穣のための生贄」としての側面が強いように思う。古代中国は有史の時代となってからは、特に有力者は一夫多妻であったと思うので、懐王に妻は一人しかいないわけではなかったと思う。
原西王母 → 西王母+女媧 → 嫦娥型逃走女神 → 子供の故に死ぬ女神:塗山氏女
→ 嫦娥型逃走女神 → 子供を持たずに死ぬ女神:巫山神女
女媧 → 北東アジア的始祖女神 → 簡狄
と分化していったと思われる。
女媧との関連姓
巫山神女は雨水の豊穣をもたらす「天候神」であるので、その起源は女媧よりは西王母が近いと考える。
塗山氏女
塗山氏女は夫から逃げ出す「逃走女神」であって、夫との仲は良くなかったと思われる。巫山神女は一時であっても懐王と豊穣に通じるような「良い逢瀬」を(少なくとも神話的には)交わせた、と見るべきで、巫山神女と懐王との逢瀬が、互いに嫌気がさして逃げるような仲であったら、豊穣には結びつかないと感じる。
簡狄
簡狄は燕の卵に感応する女神で、女媧型の始祖神の一形態だと考える。
関連項目
同起源と考えられる女神
- 伊豆能売:死んで再生された女神で、天候神であるところが共通している。
参考文献
- Wikipedia:懐王(最終閲覧日:22-09-18)
- 袁珂, 鈴木博, 中国神話・伝説大事典, 大修館書店, 1999年4月1日, isbn:4-469-01261-0
- 小尾郊一, 全釈漢文大系 第二十七巻 文選(文章編)二, 1974-09-20, 全釈漢文大系刊行会, 集英社
- 高橋忠彦, 新釈漢文大系 第81巻 文選(賦篇)下, 2001-07-25, 明治書院, isbn:4-625-67302-X
- 聞一多, 高唐神女伝説の分析, 中国神話, 中島みどり, 平凡社, 東洋文庫 497, 1989-02-10, isbn:4-582-80497-7, pages171-241, 初出『清華学報』第10巻第4期(1935年)
- Wikipedia:襄陽記(最終閲覧日:22-09-20)
注釈
- ↑ 『渚宮旧事(渚宫旧事)』巻三に引く『襄陽耆旧伝』では「夏帝」
私的注釈
- ↑ これは神女と懐王との交わりから雨水による豊穣がもたらされる、という意味であろう。雨乞いの一種ともいえるし、神女だけでなく、王も豊穣をもたらす半仙(神)半人であることを示している。
参照
- ↑ 高橋, 2001, page344
- ↑ https://kotobank.jp/word/%E5%B7%AB%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%9B%B2%E9%9B%A8-372806, 巫山の雲雨, コトバンク, 2017-04-16
- ↑ https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%9B%B2%E6%9A%AE%E9%9B%A8-568105, 朝雲暮雨, コトバンク, 2017-04-16
- ↑ 巫山の雲雨, 日本国語大辞典 第2版, volume:11, 小学館, 2001-11-20, isbn:4-09-521011-7, page821
- ↑ 高橋, 2001, page344
- ↑ 東晋の習鑿歯が4世紀に編纂した襄陽郡(現在の襄陽市)の地方志。
- ↑ 聞, 1989, page219
- ↑ 高橋, 2001, page344
- ↑ 袁, 1999, pages594, 665
- ↑ 「文選」とは中国で6世紀に編纂された詩文集である。
- ↑ 「李善注」とは7世紀に「文選」に李善によって詳細につけられた注釈のことである。
- ↑ 小尾, 1974, page441
- ↑ 高橋, 2001, page344
- ↑ 聞, 1989, pages182, 218-220
- ↑ 9~10世紀に編纂された女仙の伝記集。
- ↑ 聞, 1989, page213
- ↑ 聞, 1989