寒浞
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寒浞(かんさく)は、古代中国の人物。姓は妘、或いは猗[1]、氏は寒。夏王朝を一時期簒位し、夏王朝の遺臣である伯靡に殺された。
はじめは寒后伯明に仕えていたが、后羿(こうげい)の相(しょう)[2]に対する反乱と侵略によって夏王朝が衰微した際にその配下となり、重臣として用いられた。のちに相八年に寒浞は后羿を殺害して自らが王として立った[3]。后羿の妃で美女として知られていた玄妻(げんさい)を奪って后とし、間には澆(奡、ぎょう)と豷(えい)という二人の子供が生まれた。また后羿の子息たちには后羿の遺体を煮たものを食べるように命じ従わぬ者を死罪にしたとされる[4]。
相二十年には有戈国(現在の河南省商丘市睢陽区と新鄭市の間)を、相二十六年には斟灌氏を、相二十七年には斟鄩氏を、相二十八年には相王を滅ぼした。
その後、寒浞が簒奪した王位は少康(相の息子にあたり、有仍氏の血を引く)と、伯靡や有鬲氏・有仍氏を筆頭とする夏の遺臣たちによって奪還され、夏王朝が復するに至ったとされる。
参考文献
寒浞を題材にした小説
関連項目
- 逢蒙 別の伝説の中で羿を殺害したとされる人物。『路史』において関係性が指摘されている。