天甕津日女命
天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)。島根県松江市の多久神社の祭神。島根県出雲市の伊努神社に配祀されている。伊努神社の主祭神は赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)[1]であり、天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)の夫とされる。岐阜県揖斐郡揖斐川町(旧谷汲村)の花長上神社には天甕津日女命(天甕津媛命)の名で祀られている。同じ旧谷汲村内にある花長下神社の祭神の赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)である。愛知県一宮市の阿豆良神社では天甕津媛命(阿麻彌加都比女)とされる。
天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)と赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)は、『出雲国風土記』に記述がある出雲神話の神である。
多久神社では阿遅鉏高日子根神の妻神とされ、天御梶日女命[2]とある。この場合、子神は多伎都比古命という。高鴨神社の表記では天御勝姫命と書くこともある。この場合、子神は鹽冶彦命(主祭神の御子)、瀧津彦命(主祭神の御子)である。高鴨神社のある地は鴨氏一族の発祥の地と言われている。
目次
伊努神社について
伊努神社の近傍には斐伊川、山持川が流れている。主祭神は赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命。出雲国風土記、秋鹿郡伊農郷の由来に
出雲の郡伊農の郷に鎮座される、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の后である天甕津日女の命が、国内をご巡行になった時に、ここにお着きになっておっしゃったことには「ああわが夫よ、伊農よ(伊農波夜)」であった。それで伊努というのだ。(HP:伊努神社、玄松子より)
この神社には伊豆能売を合祀したとされているが、現在の祭神に伊豆能売の名はない。この女神は天甕津日女命と同じ女神ではないだろうか。
多久神社について
出雲市多久町にある神社。多久川流域にある。祭神は多伎都彦命と天御梶姫命(あめのみかじひめのみこと)である。天御梶姫命は天甕津日女命と同一視される[3]。「尾張国風土記」逸文における阿麻乃彌加都比売とも同じ女神であろう。
『出雲国風土記』楯縫郡に、「土地の古老が語り伝えて言ったことには、阿遅須枳高日子の命の后、天の御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。いわゆる石神は、すなわちこれ、多伎都比古の命の御霊代である。日照り続きで雨乞いをした時は、かならず雨を降らせられるのである。(「日本古典文学全集 風土記」 小学館、p202-203)」とある。
この神社は「大船大明神」とも呼ばれており、大船明神としての縁起としては、安康天皇の御代、近江から松本氏が勧請し、大船山に鎮座したという。その時、船にて勧請したその船が、今、岩となって大船山になったらしい。(HP:多久神社、玄松子より)
多久神社(松江市鹿島町)
松江市鹿島町南講武にある神社。主祭神は天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)。夫神は赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)とされている。
丹波の多久神社
京丹後市峰山町丹波にある神社。主祭神は豊宇賀能売命(豊受大神)。別名、「天酒大明神」。
伝承によれば豊宇賀能売命は『丹後国風土記』逸文にいう比治山の天女(羽衣天女)と比定され、天に帰りそびれてこの地(比治の真名井[4])に住み、稲作を行い、万病を癒す酒を作り出した[5]。このため、明治時代までは「天酒大明神」ともよばれた[6]。
丹後(宮津市由良宮ノ上)には豊宇賀能賣命の終焉の地とされる奈具神社が存在する。奈具神社は竹野川の下流域に位置する。
その他の神社
蘆高神社
出雲市美野町935にある神社。主祭神は赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけのみこと)。蘆高神社の向かい側には、妻神・天甕津姫命(あめのみかつひめ)を祀る伊努(いの)神社が建っている[8]。
向日神社
京都府向日市向日町にある神社。主祭神は向日神(御歳神)、火雷大神、玉依姫命。
向日神社は元々は、同じ向日山に鎮座する「向神社」(上ノ社)、「火雷神社」(下ノ社)という別の神社だった。いずれも延喜式神名帳に現れる古社で、「火雷神社」については名神大社「乙訓坐火雷神社(乙訓神社)」の論社である(他の論社は長岡京市の角宮神社)。向日山は小畑川のほとりにある。また神社の境内内に「増井の井戸」という井戸があり、その井戸の水は火事の火をよく消す、という霊験があった、とのことである。元は井戸や水の神を祀っていたことが示唆される。
向神社は御歳神(向日神)が向日山にとどまり、稲作を奨励したことに始まるという。
火雷神社は神武天皇が大和国橿原から山背国へ遷った際、当地に火雷神を祀ったことに始まると伝える。養老2年(718年)の社殿新築にあたり玉依姫命と神武天皇を合祀している。
境内に白雲龍王も祀る。
向日神社に祀られている大歳神(おおとしのかみ)の子・向日神(むかひのかみ)出生にまつわる伝承が残る。飛鳥時代、第42代・文武(もんむ)天皇の頃(在位 :697-707)、第3皇女は、8歳の時に病に罹る。諸国巡礼の後、西岩倉山中、三の滝(産滝、産ノ滝)傍に庵を結んだという。夢に少年が現れ、鏡を渡し、皇女の懐中に納めた。皇女はやがて懐妊し、男児を産む。子は「中松(なかまつ、幼名は楠松丸とも)」と呼ばれた。だが、皇女により子を育てることはかなわず、山中に捨てられた。この子が向日神という[9]。
という伝承があるとのこと。また
かつて向津日山(向日山)には、山城国乙訓郡向神社(現在の向日神社)、乙訓坐火雷神社(角宮神社)の二社が鎮座した。向神社、火雷神社は、それぞれ「上ノ社(上社)」、「下ノ社(下社)」と呼ばれた。上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬篤い神社だった。(『向日社略記』)[10]。
とのことだ。
伊奴神社
愛知県名古屋市西区稲生町にある神社。旧郷社。主祭神は素盞嗚尊、大年神、伊奴姫神。
天武天皇(白鳳)2年(673年)、この地で取れた稲を皇室に献上した際に社殿を建立したと伝えられる。
延喜式神名帳に尾張国山田郡伊奴神社と記されている。式内社。
江戸時代には「熊野権現」などと称していたが、村名の稲生からの類推で、神名帳にある伊奴神社に比定したものとみられる。尾張国神名帳では「従三位上 伊奴天神」とある[11][12]。
伊奴姫神とは
伊奴姫神は大年神の御妃で、子授け、安産、夫婦円満、家内安全等に大きな御神徳をお授けくださる神様であり、当神社の社名由来となっております(伊奴神社HPより)[13]。
とのこと。
境内神社に白龍社がある。伊奴神社にまつわる伝承。
かつて庄内川の氾濫に困った村人が、旅の山伏にお願いしてお祈りをしてもらったところ、その年は洪水が起こらなかった。不思議に思った村人が山伏から「開けてはならない」と言われていた、御幣を開けたところ、一匹の犬の絵と「犬の王」という文字が書かれていた。そして、翌年はまた大洪水が起こった。村人は再び山伏に御幣を勝手に開けてしまったことを謝り、もう一度お祈りをお願いした。山伏は「御幣を埋め、社を建てて祀れ」と言い、その後洪水がなくなった。それが伊奴神社の始まりと伝わっている。境内内には「犬の王」の像がある。[14]。
私的考察
「向神社」(上ノ社)と「火雷神社」(下ノ社)は賀茂系の神社で、本来は上ノ社に水(雷)神・土神、下ノ社に火雷神を祀っていたものではないか。そして後に火雷神に水神の機能を移して、
土神(上)+水火雷神(下)
本来は
赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命(上)+阿遅鉏高日子根神(下)
と思われる。向日神には槃瓠伝説を思わせる誕生譚がある。犬が出てこない「八犬伝」のような内容と考える。おそらく赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命は後に消去され、阿遅鉏高日子根神が火雷神に、子神の多伎都比古命が大歳神(向日神)に置き換えられていると考える。高鴨神社の瀧津彦命である。向日神と大歳神は「父子」とされているが、おそらく「同じ神」であろう。向日神(瀧津彦命)の母神には天甕津日女命が推定される。伝承にある「文武天皇第三皇女」とは、天甕津日女命を民間伝承化したものと考える。
これが愛知県の伊奴神社になると、大年神の妻に伊奴姫神が登場する。これは赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命神の妻であった天甕津日女命を、夫に合わせて犬化したものと考える。(そのため、山に子は捨てなくても良くなったと思われる。)大年神は向日神社と同じく、瀧津彦命のことと思われる。伊奴姫神は元々は大年神の母神だったと思われる。こちらでは 阿遅鉏高日子根神が須佐之男に置き換えられている。伊奴姫神は本来須須佐之男の妻とされていたのではないか。赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命は祭神から外されてしまったが、大洪水を収める「犬の王」として伝承に残されたように思う。この神に本来水神としての機能があったのだろう。こちらも賀茂系の神社だったと思われる。
稲作を奨励した向日神には、后稷や炎帝に似た性質がある。特に后稷には奔(捨てられし者)という名が存在した。
当信神社
長野市信州新町の当信神社(たぎしなじんじゃ)には大年神を祀る。おそらくこの神社も賀茂系の古社で大年神とは瀧津彦命のことであり、神社の名の「たぎ」に瀧津彦命の名が残っていると思われる。
三才神社跡
長野市古里は長野市田子の近くにあり、三才神社跡は古くは御歳神を祀っていたと言われる[15]。三才地区は古くは多古とも呼ばれており、北国街道の駅が置かれていた。三才の地名には諏訪由来の御射山の意味があると管理人は考えるが、御歳神には田子の神である瀧津彦命の意味が含まれていると考える。
長野市にある善光寺には、古くは本堂裏に年神堂と呼ばれるお堂があり、年神信仰が盛んだった。これは瀧津彦命への信仰だったのではないだろうか、と管理人は考える。しかし、後には年神は健御名方富命彦神別神と習合して扱われるようになったと思われる。健御名方富命彦神別神の母神は八坂刀売である。八坂刀売とは天甕津日女命の別名ではないのだろうか。
花長上神社
花長上神社(はなながかみじんじゃ)は、岐阜県揖斐郡揖斐川町(旧谷汲村)にある神社である。祭神は天甕津日女命(天甕津媛命)である。
式内社の美濃國大野郡花長神社とされており、旧社格は郷社。斐川という地名も残っている。同じ旧谷汲村内にある花長下神社の祭神は赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)である。この2つの神社は、出雲より美濃に入植した人々が赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)と天甕津日女命(あめのみかつひめのみこと)を祀ったものであろうか。
阿豆良神社
愛知県一宮市にある阿豆良神社(尾張国丹羽郡式内社の阿豆良神社)。祭神は天甕津日女命(天甕津媛命)であり、阿豆良神社には以下の社伝がある。
- 垂仁天皇の皇子品津別皇子は、7歳になっても言葉が話せなかったという。皇后の夢の中に多具の国の神・天甕津媛命が現れ、「今まで私を誰も祀ってくれない。祠を立て神に祭るなら、皇子は言葉を話せるようになり、天寿を全うするだろう。」ということを伝えたという。垂仁天皇は部下の建岡君に、天甕津媛命を探し出すように命じた。
- 建岡君は美濃国花鹿山(花長上神社は花鹿山の麓にある)に登り、榊の枝で縵(あずら)を作って神に祈り、「此の縵の落ちた所が神を祭る所であろう。」と言うと、縵を遠く投げたという。この縵が落ちた地に創建されたのが阿豆良神社という[16]。
尚、丹羽は万葉仮名では、「迩波(には)」と表記された。郡名は神八井耳命の後裔である爾波県君(にわのあがたのきみ)[17]がこの地を統治したことに由来するという説や、『丹(に)』の一字で「赤土・粘土」を意味するという説がある。奈良県明日香村の石神遺跡からは「尓破評佐匹部・ 俵」と書かれた木簡が見つかっており[18]、尓破評が置かれていたことがわかる。その後701年の大宝律令の制定により評は郡となった。927年成立の延喜式には丹羽(には)郡との記載がみられる[19]。
多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『出雲国風土記』秋鹿郡伊農郷にみえる天甕津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。天御梶日女は葦原色許男大神の子である阿遅鉏高日子根神の妻とされ、阿遅鉏高日子根神は『出雲国風土記』において、誉津別皇子と同じく大人になっても子供のように泣き止まなかったとする伝承が掲載されている。
出雲大神の祟り・誉津別皇子について
誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『日本書紀』では赤子のように泣いてばかりであったという。
『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の白鳥)が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。天湯河板挙(鳥取造の祖)が出雲(一書に但馬)で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。
『古事記』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は紀伊・播磨・因幡・丹波・但馬・近江・美濃・尾張・信濃・越を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の夢に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は太占で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の祟りとわかった。天皇は皇子を曙立王・菟上王とともに出雲(現:島根県東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、肥川(斐伊川)に橋を渡し、仮宮を造営して滞在していると、そこに出雲国造の祖先である岐比佐都美が青葉の木を飾り立てて川下に立て、食事を献上しようとした。その時、皇子が「この川下に青葉の山のように見えるものは、山の様で山ではない。もしかすると、出雲の石硐の曽宮に坐す、葦原色許男大神を仕え奉る祭場ではないだろうか」と問うた。皇子が話せるようになったことを御供の王たちは喜び、皇子を檳榔の長穂宮に移すと、早馬を走らせて天皇に報告した。天皇はこれを喜び、菟上王を出雲に返して大神の宮(出雲大社)を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。
私的考察
天甕津日女命が伊豆能売と同じ女神だとすると、「穢れを払う」女神とされ、この女神を祀ると病気がよくなる、という考え方があったのかもしれないと思う。阿豆良神社の名前は、伊豆能売に由来するのではないだろうか。
私的考察
甕という字は「かめ」を表すので、「天の水瓶」という意味で、基本的には北斗七星を神格化した女神と考える。夫が二柱いる点は、古い母系の女神であることを伺わせる。賀茂系神社では阿遅鉏高日子根神の妻神としての性質が強調されるように思うが、愛知県名古屋市の伊奴神社には、祭神ではないが、「犬の王」が大洪水を収めた、という伝承があるので、赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命もかつて祀られていたのではないだろうか。
「伊農波夜」=「犬早」という言葉からは、長野県駒ヶ根市光前寺に祀られている「早太郎」が連想される。また賀茂敬志族の祖神には「ニギハヤヒ」のように「ハヤ」がつく神がいるので、「ハヤ」とつくのは「犬早の子」という意味なのだろうか、と考えてみるのは楽しいことである。
阿遅鉏高日子根神の家系は宗像三女神との婚姻譚が多いため、天甕津日女命も宗像三女神との関連性があるかもしれないと思う。
関連項目
参考文献
- 葛木坐火雷神社(最終閲覧日:22-06-23)
- Wikipedia:賀茂別雷命(最終閲覧日:22-06-23)
- Wikipedia:多久神社(最終閲覧日:22-06-19)
- Wikipedia:花長上神社(最終閲覧日:22-06-16)
- Wikipedia:聖(最終閲覧日:22-06-21)
- Wikipedia:向日神社(最終閲覧日:24-11-16)
- Wikipedia:伊奴神社(最終閲覧日:24-11-16)
- 増井の井戸、京都府向日市歴史・観光サイト(最終閲覧日:22-06-23)
- 「日本古典文学全集 風土記」 小学館、1997、p202-203
- 伊努神社、玄松子(最終閲覧日:22-06-16)
- 赤衾伊努意保須美比古佐倭気命、玄松子(最終閲覧日:22-06-18)
- 多久神社、玄松子(最終閲覧日:22-06-21)
- 鉄の女神Ⅱ、瀬織津姫神(最終閲覧日:22-06-18)
- 葦高神社、出雲市(最終閲覧日:22-06-18)
参照
- ↑ 『出雲国風土記』に登場する神。淤美豆奴神の子神とされる。
- ↑ 『出雲國風土記・楯縫郡』の表記。
- ↑ 天甕津日女命が「御梶姫」とも呼ばれるとすると、諏訪大社の神紋である「梶の葉」紋と何か関係はあるのだろうか?(管理人)
- ↑ 「聖(ひじり)」の語源は「日知り(日を知る者)」という意味である、と言われるが「比治」の語源はどうなのだろうか?(管理人)
- ↑ https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/1/3405.html , デジタルミュージアムF10多久神社本殿 , 京丹後市 , 2020-09-21
- ↑ 6.0 6.1 丹後新風土記 , 丹後広域観光キャンペーン協議会 , 2008 , page239
- ↑ 峰山郷土史 上 , 峰山町 , 1963 , page460
- ↑ 地元では両社を結ぶ道を「恋人ロード」と呼んでいる。
- ↑ 向日神社 (京都府向日市)
- ↑ 向日神社 (京都府向日市)
- ↑ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会, 1989, p177
- ↑ 有限会社平凡社地方資料センター, 1993, p127
- ↑ 伊奴神社のご祭神
- ↑ 伊奴神社(名古屋)|犬好きにはたまらない!犬の伝説が伝わる神社、「あっちこっち名古屋」より
- ↑ 古里住民自治協議会HP
- ↑ 丹後国には阿良須神社という神社がある。女神を祀る神社である。関連は?(管理人)
- ↑ 尾張氏の者か?
- ↑ https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/5AMDRL73000209 , 木簡庫 , 奈良文化財研究所 , 2020-11-07
- ↑ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442231/177 , 延喜式 : 校訂. 下巻 国立国会図書館デジタルコレクション , 2020-11-2 , 巻二十二 民部式 上 29ページ