== 成立 ==
[[江戸時代]]の考証学者[[小山田与清|小山田(高田)与清]](1783年 江戸時代の考証学者小山田(高田)与清(1783年 - 1847年)が、本文の内部微証から[[文和]]・[[延文]]([[1352年]] 1847年)が、本文の内部微証から文和・延文(1352年 - [[1361年]])頃と推定している。1361年)頃と推定している。
== 著者 ==
「安居院」(あぐい)は[[比叡山]]竹林坊(竹林院)の里坊で、[[上京区]][[大宮通]]一条北大路にあって、[[応仁の乱]]で途絶えたが後に再興し、現在は[[浄土真宗本願寺派]]の[[安居院西法寺]]となっている。この安居院に[[唱導]]に優れた[[澄憲]]・[[聖覚]]親子が住み、その唱導は子々孫々受け継がれていった。そしていつしか彼らの唱導を安居院流というようになったらしい。『神道集』は「安居院作」とある以上、この安居院流の人達の手になったと思われるが、それを裏付ける確かな史料は現在のところまでない。安居院は[[日光市|日光]]・[[鹿嶋市|鹿嶋]]にもあって、これらとの関連も考慮しなければならない。「安居院」(あぐい)は比叡山竹林坊(竹林院)の里坊で、上京区大宮通一条北大路にあって、応仁の乱で途絶えたが後に再興し、現在は浄土真宗本願寺派の安居院西法寺となっている。この安居院に唱導に優れた澄憲・聖覚親子が住み、その唱導は子々孫々受け継がれていった。そしていつしか彼らの唱導を安居院流というようになったらしい。『神道集』は「安居院作」とある以上、この安居院流の人達の手になったと思われるが、それを裏付ける確かな史料は現在のところまでない。安居院は日光・鹿嶋にもあって、これらとの関連も考慮しなければならない。
== 内容==全10巻50章。全国の神社縁起を集める。多くは東国に関するものとなっている。内容は、[[筑土鈴寛]]が、「神道論的なもの」と「垂迹縁起的なもの」とに分類したのが現在でも踏襲されている。「神道論的なもの」は神道教義について論じたものである。「垂迹縁起的なもの」は、公式的縁起と物語的縁起に分類され、前者は神社の由来や[[本地物]]を記すのに対し、後者は神々の苦しみや悲しみを基調として神々や神社の由来を説く。典型的な例が「熊野権現事」(二ノ六)の五衰殿である。かつて[[和辻哲郎]]は、この五衰殿から「苦しむ神」「悩める神」の観念を見出したように、中世文学史・思想史などを考える上で非常に重要な内容となっている。全10巻50章。全国の神社縁起を集める。多くは東国に関するものとなっている。内容は、筑土鈴寛が、「神道論的なもの」と「垂迹縁起的なもの」とに分類したのが現在でも踏襲されている。「神道論的なもの」は神道教義について論じたものである。「垂迹縁起的なもの」は、公式的縁起と物語的縁起に分類され、前者は神社の由来や本地物を記すのに対し、後者は神々の苦しみや悲しみを基調として神々や神社の由来を説く。典型的な例が「熊野権現事」(二ノ六)の五衰殿である。かつて和辻哲郎は、この五衰殿から「苦しむ神」「悩める神」の観念を見出したように、中世文学史・思想史などを考える上で非常に重要な内容となっている。
== 成立目的==