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6,294 バイト追加 、 2022年10月30日 (日) 09:10
== 私的解説 ==
そもそもなんで管理人は羿と黄帝が同一人物である、と考えているのか、である。そもそもなぜ管理人は羿と黄帝が同一人物である、と考えているのか、である。  第一段階として、人身御供に関わる問題がある。ギリシア神話には[[テーセウス]]という英雄が[[ミーノータウロス]]という牛形の怪物を倒して同胞を人身御供の儀式から救う、という話がある。[[テーセウス]]を助けるのは[[アリアドネー]]という女神的な能力を持つ女性であり、[[ミーノータウロス]]の姉妹、というやや特殊な立場にいる。彼女は[[テーセウス]]の同胞ではない。そして、身分的にはテーセウスの同胞を人身御供に求め得るような強い権力を持っている立場なので、[[テーセウス]]よりは'''上'''とせざるを得ない。だから本来は[[テーセウス]]と敵対する立場なのだけれども、[[テーセウス]]と愛し合ってしまうので、[[テーセウス]]を助けるのである。ところが[[ミーノータウロス]]を助けた後の恋人達のその後は必ずしも幸せには描かれない。[[テーセウス]]が[[アリアドネー]]を故意に捨ててとある島に置き去りにしてしまった、とか、事故でアリアドネーが置き去られてしまったとか、ともかく二人は'''別れてしまう'''のである。 これをもっと簡略化した簡単な話にペルセウスとアンドロメダーの話があり、これは海の怪物の生贄にされそうになっていた王女アンドロメダーをペルセウスという英雄が助けて、二人は結ばれ、めでたしめでたし、となるというものである。「アリ」という言葉も「アン」という言葉も接頭辞とすれば[[アリアドネー]]とアンドロメダは元々「同じ語源」の「同じ名前」の女神と思われる。[[テーセウス]]とペルセウスの物語はどちらも人身御供に関する同じ話が2つに分岐したものといえる。そして、[[テーセウス]]もペルセウスも最終的にはどちらも「偉大な王」となる。 古代の思想には「兄妹婚姻」というものがあり、これには伝承的には「実の兄妹」の結婚までもを指す。文化的には、日本のように異母兄妹であれば結婚が認められたものや、バビロニアのように形式として兄と妹が結婚して家系を守り、近親相姦の弊害を避けるために子種のみは余所の男性に求めるものも含む。また、古代の「人身御供」の思想には「死者に妻や夫を与えて」その命と引き換えに死者の死後の世界での立場を良くしよう、という意味が含まれるものがある。エンリルの死に対して、冥界で彼の子を産むために妻として生贄に捧げられるニンリルや、川の神をなだめるために河伯に生贄にされた娘達も妻として捧げられた、という事例がある。とすれば、伝承的に[[アリアドネー]]と[[ミーノータウロス]]が兄妹あるいは姉弟であったと語られた場合、[[アリアドネー]]は[[ミーノータウロス]]の姉妹でもあったが、妻でもあったかもしれない。また、[[ミーノータウロス]]に対する生贄であったかもしれない、という可能性が生じてくる。[[アリアドネー]]が生贄であったとすれば、彼女の立場はまさにアンドロメダーと同じである。そして、[[アリアドネー]]はいったんは生贄から逃れたものの、最終的にその運命は何かの悲劇にみまわれている。 物語の全てがフィクションであれば、人々、特に庶民は「ペルセウスとアンドロメダー」のように単純で、そして最後にはハッピーエンドで終わるような物語を求めるものだと管理人は思う。わざわざ複雑な構成にして、しかもアリアドネーの最後が明確でなく、かつ悲劇であるのは '''彼女にはモデルとなる実在の人物がいて、その人物の最後が悲劇だったからではないのか''' というのが管理人の出発点である。管理人は、若かりし頃に今昔物語とギリシア神話とグリム童話から伝承学の世界に入ったので、中国の神話はつい最近まで知らなかったし、今でもそれほど詳しくは知らない。管理人の神話学の知識の根本にあるのは、神話といえばギリシアか日本、なので。羿の話を読んで、その夫婦生活の最後が別離であるから、これは「テーセウスとアリアドネー」、羿が王になったから「これはテーセウス」、黄帝も牛形の敵(炎帝)を倒して王になったから「これもテーセウス」、だから'''ギリシア神話との比較を介せば、羿と黄帝は同じものである'''。という単純なところが、中国神話を理解するにあたっての管理人の出発点である。ギリシア人を含む印欧語族の先祖の一端ではないか、と目されるスキタイの人々は古代においてはシベリアすなわちモンゴルの北西に住んでおり、中国東北部で生じた文化の影響を受ける機会は、古代においては多いにあったと思われる。だから中国神話とギリシア神話を始めとする印欧語族の神話は類似性があり、起源が同じであっても全く不思議ではないと思う。また、中国の南部は古代よりガンジス川流域と交流があり、互いに文化的影響を与え合う存在であって、インド方面とは先住民とも、侵略者といえる淫雨語族とも文化的な交通性があったと思われる。日本の神話と中国の神話の類似性なんて言わずもがなである。そもそも漢字だって中国の言葉なんだし、古代において日本の文明は全て中国からやってきたもの、と言っても過言ではない。日本の月にも兎が住むし、桂の木が生えているのである。ということで、日本の神話と中国神話とギリシア神話は、3点で比較研究でき得るものなのである。まずは、そこが大事である。
== 参考文献 ==

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