=== 鈴鹿山の立烏帽子 ===
[[三重県]][[亀山市]]と[[滋賀県]][[甲賀市]]の境に位置する鈴鹿峠に[[東海道]]の[[鈴鹿関]]が置かれ、[[東山道]]の[[不破関]]・[[北陸道]]の[[愛発関]]とともに三関と呼ばれた。鈴鹿峠は[[畿内]]と伊勢や[[東国]]を結ぶ重要な役割を果たしたことで、往来する旅人や物資を目当てとした盗賊が跳梁跋扈したことが記録や説話に記されている。特に伊勢国は[[水銀]]の産地として有名で、『[[今昔物語集]]』では水銀商人80余人が盗賊に襲われたが、日頃から恩を施していた蜂が飛んできて盗賊を刺したおかげで難を逃れたなどと記されている{{refnest|三重県亀山市と滋賀県甲賀市の境に位置する鈴鹿峠に東海道の鈴鹿関が置かれ、東山道の不破関・北陸道の愛発関とともに三関と呼ばれた。鈴鹿峠は畿内と伊勢や東国を結ぶ重要な役割を果たしたことで、往来する旅人や物資を目当てとした盗賊が跳梁跋扈したことが記録や説話に記されている。特に伊勢国は水銀の産地として有名で、『今昔物語集』では水銀商人80余人が盗賊に襲われたが、日頃から恩を施していた'''蜂'''が飛んできて盗賊を刺したおかげで難を逃れたなどと記されている<ref group="原|name=">『今昔物語集』 巻二十九 第三十六 「於鈴香山蜂螫殺盗人語」</ref><ref group="私注">いわゆる「[[動物番|『今昔物語集』 巻二十九 第三十六 「於鈴香山蜂螫殺盗人語」}}蜂の援助]]」譚であっる。</ref>。[[藤原千方の四鬼]]の説話なども伝わっているように、鈴鹿山は鬼の棲家として知られていた{{Sfn|<ref>阿部|, 2004|pages=88, pages88-89}}</ref>。
鈴鹿山の立烏帽子に関する最古の記録は[[平安時代]]末期の[[治承]]3年([[1179年]])頃に[[平康頼]]が記した[[仏教]][[説話集]]『[[宝物集]]』で、「コノ世ニモ ナラサカノカナツフテ、'''スゝカ山ノ タチエホウシ''' ナト申物侍ケリ、ヒタカノ禅師海之羊ミナト申ケルヌスヒトヽモ、イツレカツヒニヨクテ侍ル、手キラレクヒキラレ、ヒトヤニヰテカナシキメヲノミコソハミナミル事ニテ侍メレ、」とある。ここでは[[奈良坂]]{{Refnest|group=注|奈良と南山城の境をなす[[平城山丘陵|平城山]]を越える坂道}}の[[かなつぶて]]と同じく鈴鹿山の立烏帽子という盗賊が処刑されたことを記している{{refnest|group=原|name=一巻本『宝物集』|一巻本『宝物集』}}{{Sfn|阿部|2004|pages=89-91}}。