当初の鎮座地「歌荒樔田」の比定地について、社伝(月読大神宮伝記)では上野説(月読塚が存在した地)・桂里説を挙げるが、他に宇太村説(のちの平安京造営地)・有栖川流域説などの諸説が知られる{{Sfn|葛野坐月読神社(式内社)|1979}}。『文徳天皇実録』の記述により川辺にあったことが確かとされることから、中でも上野説が有力視されている{{Sfn|葛野坐月読神社(式内社)|1979}}{{Sfn|葛野坐月読神社(神々)|1986|p=165}}。
聖徳太子が諸国を巡った際に、山城国の「楓野村(=現在の葛野)」の「蜂丘」の南に宮を建て、その宮を秦河勝が一族を率い敬うことを怠らなかった、とあり弓月君の子孫と言われる秦氏の男性形の月神信仰と、楓を月神とみなす信仰は関連していると管理人は思う<ref>Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B2%B3%E5%8B%9D 秦河勝](最終閲覧日:22-10-03)</ref>。
=== 概史 ===