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== 概要 ==
人身御供の行為は、特にアニミズム文化を持つ地域の歴史に広く見られる。人間にとって、最も重要と考えられる人身を供物として捧げる事は、神などへの'''最上級の奉仕'''だという考え方からである。人身御供の行為は、人を
災害においては、自然が飢えて生贄を求め猛威を振るっているとして、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げる事で、災害の発生防止を祈願した。* 疫神に見立てて、これを殺して冥界に送る(厄払い)* 死したる先祖の供物(食物、配偶者など)にする(供養)* 新たな人類を誕生(繁栄)させるために'''引き換える必要がある魂'''('''間引き'''(的な発想))
山がちな日本の国土では、河川は急流が多く、たびたび洪水を起こす。古代人はこれを、河川のありようを司る水神が生贄を求めるのだと考えた。龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害で死亡する、またはそれを防止するために河川に投げ込まれる、人柱として川の傍に埋められる等したのが伝承の過程で変化して描写されたと考えられている<ref group="私注">竜神あるいは龍神というのは古代中国付近で発生したもので、古代中国でも川の神に生贄を捧げていたので、川の神に対する生贄の思想は古代中国から伝播したものとするべきであると管理人は考える。</ref>。という発想と思われる。特にアニミズム文化を持つ地域の歴史に広く見られる。
これらは後に人身を殺害して捧げる行為が忌避されるにつれ、人の首(切り落とされた頭)に見立てて作られた饅頭や、粘土で作った焼き物(埴輪・兵馬俑)等の代用品が使用されたり、または生涯を神に捧げる奉仕活動を行うという方向に改められるなどして、社会の近代化とともに終息していった<ref group="私注">人身御供を忌避する、という思想も非常に古くから存在している。人類の歴史は、人身御供を推進する集団と、そうでない集団との果てしない戦いであるとも個人的には思える。</ref>。災害においては、災害神が猛威を振るっているとして、大規模な災害が起こる前に、適当な人身御供を捧げる事で、神を慰撫し災害の発生防止を祈願したという面もあった(供養)。
その一方で、近代から現代に掛けても悪魔崇拝や集団自殺等により、人身を捧げる儀式も発生し、社会問題化する事がある。前者の悪魔崇拝では、中世ヨーロッパの魔女狩りで流布されたサバトの描写中で、赤ん坊を悪魔に捧げたとする伝承(これは「反キリスト教的な行為」と考えられている・後述参照)が、「悪魔を崇拝するのに必要な儀式」として解釈されたのだと考えられ、例えばウェスト・メンフィス3の事件はこのような事例の一つと考えられている。後者の宗教に絡んだ集団自殺行為では、供物として神に捧げられるというよりも、死ぬ事で理想化された死後世界に到達する(人民寺院の集団自殺事例など)という事例が見られる。山がちな日本の国土では、河川は急流が多く、たびたび洪水を起こす。古代人はこれを、河川のありようを司る水神が生贄を求めるのだと考えた。これは豊穣をもたらし、干ばつを抑えるはずの水神を'''無理矢理疫神と習合させた'''結果と考える。  龍神伝承では、直接的に龍に人身を差し出したと伝えられるが、実際には洪水などの自然災害を防止するために河川に投げ込まれたり、人柱として川の傍に埋められる等したものを神話化したものと言えよう。龍神という概念は古代中国で発生したもので、古代中国でも川の神([[河伯]])に生贄を捧げていたので、川の神に対する生贄の思想は古代中国から伝播したものと考える。 これらはおそらく紀元前8000~7000年頃に、古代中国で人身を殺害して捧げる行為を忌避する思想が誕生し、動物や野菜、果物、菓子、粘土で作った焼き物(埴輪・兵馬俑)、藁や布で作った人形等の代用品を捧げるようになっていったと思われる。更に時代が下ると、人の首(切り落とされた頭)に見立てて作られた饅頭を捧げるようにもなっていった。人が直接関わる場合には生涯を独身で過ごし、その身を神に捧げるという奉仕活動を行うという方向に改められるなどして、社会の近代化とともに終息していった。 その一方で、近代から現代に掛けても悪魔崇拝や集団自殺等により、人身を捧げる儀式も発生し、社会問題化する事がある。前者の悪魔崇拝では、中世ヨーロッパの魔女狩りで流布されたサバトの描写中で、赤ん坊を悪魔に捧げたとする伝承(これは「反キリスト教的な行為」と考えられている・後述参照)が、「悪魔を崇拝するのに必要な儀式」として解釈されたのだと考えられ、例えばウェスト・メンフィス3の事件はこのような事例の一つと考えられている。魔女狩りそのものが教会が排除したいと考えるものを一方的にスケープゴートとする傾向が非常に強く、神の名を借りた殺戮、強制的な間引きで、'''教会を満足させ、慰撫するための'''人身御供であった、ともいえる。 後者の宗教に絡んだ集団自殺行為では、供物として神に捧げられるというよりも、死ぬ事で理想化された死後世界に到達する(人民寺院の集団自殺事例など)という事例かもしれない。一人で自殺することが嫌な教祖的立場の者が、敢えて共に自殺する仲間を作って、神の名を借りて信者を死に追いやったのであれば、これは'''教祖を満足させ、慰撫するための'''人身御供だったとも言えなくはないだろうか。 時代が下ると、'''人身御供'''とは神を敬い慰撫する行為ではなく、神や権力の名を借りた特定の集団や個人を'''満足させ、慰撫するためのもの'''へと変化していくようである。
== 東アジア ==
=== 中国 ===
中国では殷代の帝辛(紂王)以前には、さかんに'''生贄'''が捧げられた。この際には神の意思を確認したらしく、捕らえた異民族の処遇を占ったと見られる甲骨文字も出土している。また、殷代の墓から45人分のが捧げられた。この際には神の意思を確認したらしく、捕らえた異民族(主に羌族)の処遇を占ったと見られる甲骨文字も出土している。また、殷代の墓から45人分の'''殉葬'''者の人骨が出土した例もある。更に異民族に限らず、殷墟の宮殿の'''基壇'''の跡から850人分の武装した軍隊の人骨が戦車(馬車)ごと出土しており、中には高い身分と思われる人物まで含まれていた為、殷の国民も人身御供の対象にされていたと推測されている<ref>陳舜臣『中国五千年』(上)51頁</ref>。
戦国時代の魏では、西門豹が人身御供の儀式をやめさせ国を発展させた。
* 『七類修稿』
<blockquote>蠻地以人頭祭神 諸葛之征孟獲 命以面包肉為人頭以祭 謂之蠻頭 今訛而為饅頭也 古人寒食採桐楊葉染飯青色以祭 資陽氣也 今變而為青白團子 乃此義耳。}}|『七類修稿』卷四十三の事物類乃此義耳。(『七類修稿』卷四十三の事物類)<ref>七修類稿/卷43, 郎瑛</ref></blockquote>
* 『因話録<ref>因話錄, 趙璘</ref>』<ref>http://www.yuiwo.com/viewthread.php?action=printable&tid=995, 方王媽媽堅果饅頭製作, 2010年8月4日}}</ref><br />
『事物紀原』などの説が後の明代に書かれた説話『三国志演義』に収録され広く知られるようになったため、その内容を解説されることが多い。『七類修稿』では中華思想で南方の異民族を南蛮と呼ぶので、蛮人の頭を意味する「蛮頭」(蠻頭, 蛮头, mán tóu)が語源であるとする。『因話録』では「神をだまし、本物の頭だと信じ込ませる」ことから「瞞頭」(瞞頭, 瞒头, mán tóu、発音は同じマントウ)と最初呼ばれたという。その後、饅頭を川に投げ入れるのがもったいないので祭壇に祭った後で食べるようになり、当初は頭の形を模して大きかった饅頭が段々小さくなっていったと言われている。
==== 人柱(ひとばしら) ====
日本では土木工事現場で犠牲となった労働者をしばしば'''人柱'''と言うが、これは元々、重機もなく自然を切り開くことが困難だった時代、橋や堤防の普請、城の築城などに際し、施工から完成後の永きに渡って崩落や決壊がないことを祈願し、生贄として人間を生き埋めにしたことから来ている。『日本書紀』に登場する茨田堤(大阪府)などが有名。と言うが、これは元々、重機もなく自然を切り開くことが困難だった時代、橋や堤防の普請、城の築城などに際し、施工から完成後の永きに渡って崩落や決壊がないことを祈願し、生贄として人間を生き埋めにしたことから来ている。『日本書紀』に登場する[[茨田衫子|茨田堤]](大阪府)などが有名。 土木工事に関する人柱とは、まず工事の際に災いが起きないように'''災害神と技術神'''に食事をさせて慰撫するためのもの、完成後の建築物(橋や堤)に災いが起きないように災害神を慰撫するためのものと管理人は考える。災害神(疫神)と技術神は表裏一体の存在で、工事のための'''技術神の力を強め'''、災害神(疫神)の荒ぶる力を抑制することが「人柱」という名の人身御供の目的と考える。日本神話の場合、災害神(疫神)は'''[[須佐之男命]]'''であり、技術神は'''[[五十猛神]]'''という木を植え加工する神である。この二神は父子の関係とされている。 ただし、[[茨田衫子|茨田堤]]の伝承に関しては、『日本書紀』によると人身御供に捧げられた者は、災害神(疫神)である[[須佐之男命]]のようなふるまいをした、とあるので、少なくとも[[茨田衫子|茨田堤]]の祭祀は「'''災害神(疫神)に見立てた者を殺して冥界に追放することで、厄払いをする。'''」という意味が強かったように思われる。
ただし、'''人柱'''は神を鎮める供物ではなく、人身御供とは異なるという見方もある。神話学者の は神を鎮める供物ではなく、人身御供とは異なるという見方もある。<s>神話学者の 高木敏雄は人身御供と人柱の混同を指摘している<ref>高木敏雄『日本神話伝説の研究』530頁「時々人柱として河の神に人身御供に捧げられる」</ref>。高木によれば、人柱は神に捧げるものではないため、神に捧げるという意味で差し出される生贄が、人身御供ということになる。<ref group="私注">人柱が神に捧げるものでないのなら何だというのだろうか。単に何かの作業の成功を祈願する(何に対しての祈願なのかがはっきりしないが)ためのものが人柱だというのであれば、朝ご飯を作る作業すら人柱が必要ということになってしまうのではないだろうか。</ref></s>
なお、南方熊楠の「南方閑話」<ref>南方熊楠「南方閑話」坂本書店出版部1926年3月20日発行61頁―96頁</ref>では神に捧げられる生贄が人柱として紹介されている。
==== 儺追(追儺)との関係 ====
江戸時代中期の国学者天野信景は著書『塩尻』にこう書いている。<blockquote>…和州長谷修正の終に鬼を追う事あり頃年我熱田の神宮寺にても正月此事をはじめ侍る是は路人を執促するに非ず夫路行の旅人を捉え侍るは湖南九江の淫祠に似たり追儺は人を以て神を祭るにあらざれども世俗人は人を牲(ニエ)とする様にかたる…。…和州長谷修正の終に鬼を追う事あり頃年我熱田の神宮寺にても正月此事をはじめ侍る是は路人を執促するに非ず夫路行の'''旅人を捉え侍る'''は湖南九江の淫祠に似たり追儺は人を以て神を祭るにあらざれども世俗人は'''人を牲(ニエ)とする'''様にかたる…。</blockquote>これにより、当時の一般の人々が追儺に人身御供を用いていたと勘違いしていたことがうかがえる。これにより、当時の一般の人々が追儺に人身御供を用いていたと勘違いしていたことがうかがえる<ref group="私注">これは追儺の儀式とは別に、広く「疫神払い」とは「'''疫神に見立てた人を殺して冥界に送る'''」という祭りであることが一般化していたために生じたのではないだろうか。</ref>。
==== 白羽の矢 ====
静岡県磐田市、淡海國玉神社の「見付天神裸祭」は台風大雨洪水となっても決行される。これは前述の「白羽の矢」の由来にもなった人身御供の儀式が、決まった日時に遅延なく行わなければならなかったことの名残であると伝わる<ref>小川有言「遠江の伝説」安川書店 昭和17年1942年11月1日発行166頁―167頁</ref>。
その昔、遠江の見附村では毎年、どこからともなく放たれた白羽の矢が家屋に刺さると、その家は所定の年齢にある家族(娘)を人身御供として神に差し出さねばならなかった。ある時、神様がそんな恐ろしい要求をする筈がないと考えた旅の僧侶によって、神の正体が怪物だと発覚。僧侶はその怪物が怖れているのが信濃の山犬、悉平太郎(しっぺいたろう)であると知り、信濃国光前寺から悉平太郎を連れて来て、怪物を退治した。
人身御供の風習を止めた山犬の悉平太郎は、故郷である信濃側駒ヶ根市では「早太郎」と呼ばれている。人身御供の風習を止めた山犬の悉平太郎は、故郷である信濃側駒ヶ根市では「[[早太郎]]」と呼ばれている。 矢奈比売神社に伝わる伝承は、干ばつなどを起こす猿神が、若い娘の人身御供を求めたものを霊犬・[[早太郎]]が倒した、というものである。現在、矢奈比売神社には「矢奈比売大神」という女神が祀られている。この神社における「人身御供」とは、災害神(疫神)を慰撫するための食料や妻としての意味があると考える。彼女を選び出すのは「白羽の矢」である。この「矢」とは何者なのだろうか。
==== 三股淵 ====
人身御供を捧げる相手を単なる大蛇ではなく、竜神など神とみる向きもある。
<ref>小笠好恵「東海道の伝説」関西通信社、小長谷宗芳「伝説富士物語」木内印刷合資会社1952年8月発行168頁-179頁</ref>。
 
 
三股淵の伝承は、田子の浦港(静岡県富士市)の奥、沼川と和田川(生贄川)が合流する場所を「三股淵」といい、ここに竜蛇が住まい、少女を生けにえとしてささげていた、というものである。複数(6人)の旅の巫女と「あじ」という娘が生贄に選ばれる話で、悲劇的な結末になるパターンや、生贄を無事に免れるパターンがあるようである。6人の娘は六王子神社に祭られ、あじは阿字神社に祭られた、とのことである<ref>[http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html 三股淵の生けにえ伝説]</ref><ref group="私注">管理人の私見では、「あじ」とは伊豆能売命(雷女女神)が民間伝承化したものではないか、と思う。伊豆能売命は雷の女神であり、水の女神でもあると思うので、本来は生贄を捧げられる側であった龍蛇女神の伊豆能売命が「生贄となる」ことになってしまったのが、三股淵の伝承ではないか、と思う。伊豆能売命は、本来雷神信仰の強い賀茂氏の神ではないかと考える。尾張国伊多波刀神社に祀られている。「旅人を生贄に捧げる」という点は尾張國府宮の祭祀と共通している。三河・遠江・駿河は女性を生贄に捧げる話が多いのではないだろうか、と感じる。</ref>。
 
==== 子だが橋(小田橋) ====
愛知県豊川市小坂井町字宮脇にある菟足神社(うたりじんじゃ)にまつわる話。祭神は'''菟上足尼命'''(うなかみすくねのみこと)。[[葛城襲津彦|葛城襲津彦命]](かつらぎそつひこのみこと)四世の玄孫にあたり、雄略天皇の治世に'''穂の国'''(現在の東三河)'''国造'''に任ぜられたという。4月に行われる「風(かざ)まつり」は、『宇治拾遺物語』や『今昔物語』に記載される古い祭であり、「菟上足尼命が着任するときに海上が大きく荒れたにも関わらず無事に到着した」という伝承が元にななっているということだ<ref>[https://www.shintoken.jp/kenkyu/2014/08/utari/ 菟足神社と兎神輿(愛知県豊川市)]、神兎研究会(最終閲覧日:24-12-11)</ref>。
 
この祭りは人身御供を伴っていたとのことで、以下のような伝承があるとのこと。
 
<blockquote>菟足神社には、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。ある男が生け贄を狩りに行くと不運にも里帰りにきた自分の娘が「小田橋」を渡りに来て、その男は「自分の子だが生け贄にした」とのこと。娘を神社の「生贄」としてさしだし、それ以後、その橋を「(自分の)子だが橋」と呼ぶようになったとのことである。<br>その後、「風祭」では、「人身御供」はなくなっても、イノシシを生贄として差し出したり、最近でも、スズメを生贄として差し出しているとのことだ<ref>[https://blog.goo.ne.jp/amigo-yumedream/e/43f31a6a78dd36e92705408e3b5e1710 生贄伝説があった???「隠れウサギ」のいる…菟足神社を参拝する…]、新・日記どす(DOS)(最終閲覧日:24-12-12)</ref><ref>[http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto2/utari.htm 菟足神社](最終閲覧日:24-12-12)</ref>。</blockquote>
 
また、神社には徐福伝説もあるそうだ。
 
 
おそらく、人身御供の起源として、祭神が荒れた海を鎮めるために娘を人身御供にした、というような'''弟橘媛'''のような縁起譚があったのではないだろうか。風神系の疫神を鎮めるための祭祀と思われる。殺された娘は「[[吊された女神]]」といえる。
==== アイヌの人身御供伝説 ====
==== 隻眼の人身御供 ====
近江国(現在の滋賀県)伊香郡には、水神に対して美しい娘の生贄を奉ったが、当地では生贄となる娘が片目であったとされる<ref>『新編 柳田國男集 第七巻』 筑摩書房 1978年 p.251 - p.252</ref>。柳田國男の『一つ目小僧その他』において、人身御供と隻眼の関係が説かれている。
柳田國男の「日本の伝説」<ref>柳田國男「日本の伝説」三国書房 昭和15年1940年12月20日95頁-96頁</ref>では、神が二つ目を持った者より一つ目を好み、一つ目の方が神と一段親しくなれると書いており、神の贄となる魚を通常の魚と区別するために片目にすることが紹介されている<ref group="私注">健常ではない者を生贄にする、という風俗は蛭子信仰と関連するのではないだろうか。健常ではない者を生贄にする、という風俗は蛭子信仰と関連するのではないだろうか。また、人身御供が不具であるという点は、生贄を祭祀の際にバラバラにした名残でもあるのではないか、と思う。</ref>。
==== 巫女・旅人の人身御供 ====
<blockquote>此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免かれんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕へることになったのであるが、…(中略)…旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた</blockquote>
なお尾張國府の件は、旅人も捕まることを警戒して寄り付かなくなってしまうため、尾張藩が藩命を出して止めさせたとある<ref group="私注">尾張國府宮の直會祭は、元は祭祀者が「最初に出会った男」を捕らえるもので、必ずしも旅人が生贄に限定されたものではなかったようだが、しきたりを知る地元民は捕まらないように忌避したであろうから、事実上偶発的な旅人を狙った祭祀といえよう。体裁は穢れを人身御供に押しつけて殺す(穢れそのものを殺す)というものだが、通常「穢れを祓う祭祀」とは津島神社のように川に穢れを流したりして、コミュニティーの境界の外に穢れを出すものであると思うので、コミュニティー内の土地のいずれかに穢れを埋めてしまうのは、穢れをコミュニティーの中にため込んでしまうことになるため、本来的には「追儺の祭祀」というよりは、'''土地の神に対して生贄を捧げる祭祀'''であったのではないだろうか。尾張国には尾張猿田彦神社、犬山市の猿田彦神社など、川と関係する猿田彦神社が多く、猿田彦が川の神として扱われているように感じる。猿神に対して人身御供を捧げる話は多いため、國府宮の直會祭は'''猿神(川の神)に対して男性(主によそ者)を生贄に捧げる'''という祭祀だったのではないだろうか、と思う。猿神(川の神)に対して男性を生贄に捧げる習慣があったとすれば、元々猿神に対する人身御供の祭祀は生贄に性別を問わなかった可能性もある。猿田彦も「殺される神」であるので、人身御供は猿田彦の化身とされた面もあったのであろうか。裸の男、というのであれば蛭子も連想させる。仮に川の神である猿田彦に見たてた男を殺したのであれば、ヤマタノオロチ退治との関連も示唆されるように思う。</ref><ref group="私注">今昔物語には、巻第二十六第七に「美作国(現在の岡山県)神依猟師謀止生贄語」、第八に「飛騨国猿神止生贄語」がある。宇治拾遺物語には巻第十の六に「吾妻人生贄をとどむる事」があり、これは今昔物語の美作国の物語とほぼ同一の話である。尾張国府宮の祭祀と比較する場合、距離的に近い飛騨の物語とまず比較すべきと思う。旅人は、妻の身代わりになるとは知らずに隠れ里に留め置かれるが、妻によって生贄を求める猿神のことを知り、これを退治する。   要は、「炎黄神話」が原型であることは明らかなわけだけれども、遠江では黄帝が犬に変えられてしまうし、尾張では「黄帝こそが生贄になるべきである」と国府宮の祭祀で主張されているように思う。尾張氏関係者が何故、「黄帝こそが生贄になるべきである」という祭祀を江戸時代に至るまで執念深く続けたのか。それは、尾張氏が炎帝の子孫であると自負していたからではないのか、と個人的には思うわけですが。尾張國府宮の直會祭は、本来追儺の祭祀ではなく、大元を辿れば炎帝に対する雨乞いの儀式か何かのように思います。静岡では、猿神に対する生贄は禁忌とされながら、事実上は総社の大国主を猿神に見たてて、女神を生贄に捧げる祭祀をやっているように思うわけですが。男衆が裸になるのは、彼らもまた生贄である、という表面的なジェスチャーのようにも感じます。今昔物語には、巻第二十六第七に「美作国(現在の岡山県)神依猟師謀止生贄語」、第八に「飛騨国猿神止生贄語」がある。宇治拾遺物語には巻第十の六に「吾妻人生贄をとどむる事」があり、これは今昔物語の美作国の物語とほぼ同一の話である。尾張國府宮の祭祀と比較する場合、距離的に近い飛騨の物語とまず比較すべきと思う。旅人は、妻の身代わりになるとは知らずに隠れ里に留め置かれるが、妻によって生贄を求める猿神のことを知り、これを退治する。生贄の男は猿神に提供される際、'''裸にされ、髻を解かせ、まな板の上に寝かせ、真魚箸と刀を添えて'''置かれた、とある。尾張國府宮の祭祀と比較すると、神男が'''裸にされて神に供される'''ことが共通している。そして「'''裸になること'''」は「'''料理しやすくするため'''」であることが暗示されているように思う。また、祭りに参加する男達も裸になる点は、猿神に対する人身御供の伝承がある見付天神の祭祀と共通している。猿神あるいは猿田彦を「川の神」とした場合、尾張國府宮の近くには木曽川が、見付天神の場合は天竜川が流れている。飛騨の伝承は「隠れ里」の場所が明らかにされていないので、川の特定はできない。</ref>。
折口信夫の論じた「まれびと信仰」では、外界から来た客人を神もしくは神の使者として扱うとしており、旅人を生贄とすることは、神に近い存在の巫女を生贄にすることと共通点があると考察される。
==== 男子の人身御供 ====
多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が目立つ。しかし、中山や高木は生贄に男子の場合も紹介している。 <ref>中山太郎「日本巫女史」251頁、高木敏雄「日本神話伝説の研究」533頁-534頁</ref>
 
* [[キジも鳴かずば]]:主に成人男子を人身御供に捧げている。長野市信州新町他。
=== 何に生贄を捧げるか ===
==== 水田と人身御供 ====
松村武雄は「日本神話の研究」で、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと述べている。また、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している。松村武雄は「日本神話の研究」で、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと述べている。また、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している<ref>松村武雄「日本神話の研究 第三巻」培風館 昭和30年1955年11月10日発行126頁197頁207頁</ref>。松村は同書で中島悦次の「穀物神と祭祀と風習」を紹介し、その中で柳田國男の「郷土誌論」を参考にした「オナリ女が田植えの日に死んだというのは、オナリ女の死ぬことが儀式の完成のために必要であったことを意味する」との文章を引用している<ref group="私注">田の神に女性を捧げる祭祀と、猿神に女性を捧げる祭祀は、猿神=猿田彦=川の神(水神)、とすると連続性がある祭祀と言えると思う。そして、収穫の豊穣のために犠牲となる人間が必要だった、とされるのであれば、趣旨からいって本来的には生贄は女性とは限らなかったのではないか。中国神話には田の神に女性を捧げる祭祀と、猿神に女性を捧げる祭祀は、猿神=猿田彦=川の神(水神)=田の神、とすると連続性がある祭祀と言えると思う。そして、収穫の豊穣のために犠牲となる人間が必要だった、とされるのであれば、趣旨からいって本来的には生贄は女性とは限らなかったのではないか。中国神話には[[后稷]]という男性形の死したる穀物神もいることだし、と思う。生贄が女性に限定されるようになったのには、何かその原因となった事情があるのではないか、と考える。日吉山王のように猿神=太陽神ともみなすのであれば、太陽神でもあり水神でもある猿神=猿田彦とは、中国神話におけるという男性形の死したる穀物神がおり、男性も生贄とされていたであろうことが示唆されるように思う。生贄が女性に限定されるようになったのには、何かその原因となった事情があるのではないか、と考える。日吉山王のように猿神=太陽神(あるいはその使い)ともみなすのであれば、太陽神でもあり水神でもある猿神=猿田彦とは、中国神話における[[炎帝神農]]といえる、とも思う。といえる、とも思う。鼻が高く赤い顔の猿田彦はその赤さが「太陽神」と通じるものでもあるのではないだろうか。</ref>。
==== 神隠しと人身御供 ====
人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、神隠しと神が人を食う事との関連を柳田國男は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田によれば、日本では狼は山神として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる<ref>柳田國男「山の人生」実業之日本社 昭和23年1948年5月15日発行148頁―149頁 郷土研究社版 昭和11年1936年1月28日発行「山の人生」が原本</ref>。  === 疫神と人身御供 ===疫神に対する人身御供には大きく2つの意味があるように思う。* 疫神を慰撫するもの。** 餌的なもの** 配偶者的なもの。** 疫神(祟り神)の原因となった者に見立てた者を殺すこと。* 疫神に見立てた者を殺して、疫神封じをするもの。これらが複合的になって、区別が曖昧なものも多いように思う。
=== 人身御供の分析 ===
<blockquote>坂戸明神の話に移る。久しい間の伝承で神聖にされた、馬鹿にできぬ儀式がある。祭祀の儀式としての人身御供の存在説を主張する者の提供した、或は寧ろ提供し得る證據(しょうこ)物件の中で最も有力なるものである。
爼(マナイタ)と庖丁(ホウチョウ)、それから生きた實(実)物の人間、考えたばかりでも身の毛が立つ。爼と庖丁とが、果たして人間を神に供えた風習の痕跡だとしたらどうだ。犠牲を享(う)ける神は、鎮守の社に祀られる神である。捧げるものは氏子の部落である。捧げられる犠牲は、氏子の仲間から取らなければならぬ。人身御供という風習の言葉の中には、久しい間の慣例と云うことの意味が含まれているではないか。鎮守の社の祭祀は、年毎に行われる儀式である。人身御供と云うことが此祭祀の恒例となっている以上は、春秋二度とまで行かずとも毎年一度か少なくとも二三年に一度位は行わなければなるまい。凡ての伝説は、毎年のこととしているではないか(高木敏雄)<ref group="私注">坂戸明神は千葉県袖ケ浦市にある。今昔物語の中の猿神退治では、生贄を裸にしてまな板の上にのせて神に捧げる、という記述が出てくる。(今昔物語では生贄を直接殺すのは猿神自身とされている。)これは猿神に人身御供を捧げた祭祀の名残なのではないだろうか。そもそも坂戸って物部氏の一派の名字では? と管理人は思うわけですが。坂戸明神は千葉県袖ケ浦市にある。人身御供は選ばれて大きな俎板の上にのせられ、神官がこれを刀で切り裂く真似をして神に供えたという。ただし御供にされた者は必ず3年以内に死んだと言い伝えられているとのこと。今昔物語の中の猿神退治では、生贄を裸にしてまな板の上にのせて神に捧げる、という記述が出てくる。(今昔物語では生贄を直接殺すのは猿神自身とされている。)これは猿神に人身御供を捧げた祭祀の名残なのではないだろうか。(そもそも坂戸って物部氏の一派の名字では? と管理人は個人的に思うわけですが。)坂戸神社の近くには浮戸川という川が流れている。</ref></blockquote>
※「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」1967年5月15日発行3頁で語られる「生贄の淵」の人身御供を伴う祭りは12年毎に行われると書かれており、諏訪神社で行われていたとされる人身御供の儀式は3年毎であったと考えられているため、人身御供を伴う祭りが、必ずしも毎年あったとされているわけではない。
=== ガリア ===
{{<sup>(''出典の明記|date=, 2015年4月10日 (金) 11:59 (UTC)|section=2}} '')</sup>『[[ガリア戦記]]』によれば、[[ガリア]]に住む[[ケルト人]]の間では、木を編んで作った大きな人型([[ウィッカーマン]])の中に生贄を入れ、中の生贄ごと燃やすという風習があったと伝えられる。『ガリア戦記』によれば、ガリアに住むケルト人の間では、木を編んで作った大きな人型(ウィッカーマン)の中に生贄を入れ、中の生贄ごと燃やすという風習があったと伝えられる。
=== ローマ ===
{{<sup>(''出典の明記|date=, 2015年4月10日 (金) 11:59 (UTC)|section=1}} '')</sup>[[第二次ポエニ戦争第二次ポエニ戦争のカンナエの戦いでは、カルタゴのハンニバルにより、ローマ軍は壊滅的な状況となり、ローマは国家存亡の危機にあった。絶望したローマ人は神]]の[[カンナエの戦い]]では、[[カルタゴ]]の[[ハンニバル]]により、ローマ軍は壊滅的な状況となり、[[共和政ローマ|ローマ]]は国家存亡の危機にあった。絶望したローマ人は[[ローマ神話|神]]に助けを請い、人身御供として数人の[[奴隷]]が殺され、[[フォルム]]に埋められた。助けを請い、人身御供として数人の奴隷が殺され、フォルムに埋められた。文献で確認できる限りでは、これがローマにおける最後の人身御供である{{疑問点|date=2015年9月28日 |title=これはローマにおける最後の人身御供ではない | talksection=ローマの人身御供}}<sup>(''疑問点、2015年9月28日、これはローマにおける最後の人身御供ではない、ローマの人身御供'')</sup>。 
=== リトアニア ===
13世紀から14世紀に至るまでリトアニアは固有の宗教を信仰していた<ref name="名前なし-1">{{Harvnb|三浦|, 2015|, 第四章 最後の異教国家 リトアニア}}</ref>。信仰の全容はいまだ明らかにされていない。だが、古代インド・ヨーロッパ神話の姿をとどめた、二元論的な世界理解のうえに作りあげられた精密かつ巨大な体系であり、根幹には自然崇拝と祖先崇拝が入り交じったアニミズムがあった。<ref name="名前なし-1"/>。16世紀のウプサラ大司教オラウス・マグヌス・ゴートゥスによる『北方民族文化史』では、ドイツの歴史家アルベルトゥス・クランチウスとポーランドのメルコヴィータの二人の説が紹介されている。彼ら歴史家たちによれば、異教時代のリトアニアでは、「三つの神、すなわち火と森と蛇が主として崇拝されていた」という16世紀のウプサラ大司教オラウス・マグヌス・ゴートゥスによる『北方民族文化史』では、ドイツの歴史家アルベルトゥス・クランチウスとポーランドのメルコヴィータの二人の説が紹介されている。彼ら歴史家たちによれば、異教時代のリトアニアでは、「三つの神、すなわち'''火と森と蛇'''が主として崇拝されていた」という<ref name="名前なし-1"/>。イギリスの研究者ローウェルは、「13世紀と14世紀に(リトアニア人が)聖なる三副対の神々を崇拝していた」と考えている。特に崇められていたのは、「雷の投げ手」で主神の[[ペルクナス]]である。[[スラヴ神話]]の[[ペルーン]]、[[ゲルマン神話]]の[[トール]]にあたる存在である。スラヴ神話やゲルマン神話とともに、[[世界樹]]としての樫の信仰に結びついていた。同時に、彼らは火も崇拝していた。イギリスの研究者ローウェルは、「13世紀と14世紀に(リトアニア人が)聖なる三副対の神々を崇拝していた」と考えている。特に崇められていたのは、「雷の投げ手」で主神のペルクナスである。スラヴ神話のペルーン、ゲルマン神話のトールにあたる存在である。スラヴ神話やゲルマン神話とともに、世界樹としての樫の信仰に結びついていた。同時に、彼らは火も崇拝していた<ref name="名前なし-1"/>。このように近隣諸民族の土着宗教と似てはいるが、リトアニアには彼らの宗教を固く守りぬく、政治力を持った強力な集団がいた。何より、支配階級の公たちが司祭の役割を果たしていた。即位時には宗教儀礼として供物を捧げた。ヴァイデロトと呼ばれる司祭階級は、ペルクナスに供物を捧げ、戦場では兵士たちを鼓舞した<ref name="名前なし-1"/>。彼らの儀礼では、神に生き物を捧げた。雄鶏や豚、雄牛ともに人間も供犠の対象であった。12世紀中葉から13世紀にかけて、「[[北の十字軍]]」と呼ばれる騎士修道会の騎士たちが、キリスト教カトリックへの改宗を迫って西スラヴやバルト海東部沿岸地域へと侵攻、[[リーヴ人]]、レット人(ラトヴィア人)、エストニア人らを支配した。さらに[[ドイツ騎士修道会]]が加わり、布教に名を借りた、のちに[[ドイツ東方植民]]と呼ばれる激しい征服活動が行われた12世紀中葉から13世紀にかけて、「北の十字軍」と呼ばれる騎士修道会の騎士たちが、キリスト教カトリックへの改宗を迫って西スラヴやバルト海東部沿岸地域へと侵攻、リーヴ人、レット人(ラトヴィア人)、エストニア人らを支配した。さらにドイツ騎士修道会が加わり、布教に名を借りた、のちにドイツ東方植民と呼ばれる激しい征服活動が行われた<ref name="名前なし-1"/>。リトアニアは国中でこの十字軍に対抗せねばならなかった。1320年には、リトアニアは、捕えたサビアの領主、騎士ゲラルド・ルーデを重武装のまま火葬壇で焼いた。1389年にはメーメル(現[[クライペダ]])の司令官、騎士ニコラス・カッサウを重装備の騎馬姿で焼き殺した1320年には、リトアニアは、捕えたサビアの領主、騎士ゲラルド・ルーデを重武装のまま火葬壇で焼いた。1389年にはメーメル(現クライペダ)の司令官、騎士ニコラス・カッサウを重装備の騎馬姿で焼き殺した<ref name="名前なし-1"/>。また、騎士を煙で窒息死させることもあった<ref name="名前なし-2">{{Harvnb|山内|, 2011|, タンネンベルクの戦い}}</ref>。騎士を供犠にする際に、重装備の騎馬姿であったのは、リトアニアの民衆に対して、彼らの火の信仰が、キリスト教の騎士などよりはるかに強いことを見せるためではないかと考えられる<ref name="名前なし-1"/><ref name="名前なし-2"/>。
== アメリカ大陸 ==
<ref>[http://www.natgeo.tv/us/especiales/ninos-momia Niños momia, Sacrificados en Salta, National Geographic Channel]{{es icon}}</ref><ref>[http://www.ngcjapan.com/global/peopledetail/genre_cd/303 ヨハン・ラインハルト|ナショジオピープル|番組紹介|ナショナル ジオグラフィックチャンネル]</ref>。[[ユーヤイヤコ]]火山の山頂 (標高 6739 m) で発見された。]] [[アステカ]]人は「[[太陽]]の不滅」を祈って、人間の新鮮な[[心臓]]を[[神殿]]に捧げた。ほかに豊穣、[[雨乞い]]を祈願して、捧げられることもあった。しかしその一方では、これら生贄に捧げられる事が社会的にも名誉であると考えられていたとされ、[[球技]]によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在った模様である。アステカ人は「太陽の不滅」を祈って、人間の新鮮な心臓を神殿に捧げた。ほかに豊穣、雨乞いを祈願して、捧げられることもあった。しかしその一方では、これら生贄に捧げられる事が社会的にも名誉であると考えられていたとされ、球技によって勝ったチームが人身御供に供されるといった風習も在った模様である。
生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま[[黒曜石]]のナイフで心臓をえぐり取られたとされる。生贄の多くは戦争捕虜で、生贄獲得のための[[花戦争]]も行われた。選ばれた者が生贄になることもあり、幼児や少年・少女などが神に捧げられることがあった。ただ、一説によればアステカはこのような儀式を毎月おこなったために生産力が慢性的に低下し、社会が弱体化、衰退したとも言われている。生贄は石の台にのせられ四肢を押さえつけられ、生きたまま黒曜石のナイフで心臓をえぐり取られたとされる。生贄の多くは戦争捕虜で、生贄獲得のための花戦争も行われた。選ばれた者が生贄になることもあり、幼児や少年・少女などが神に捧げられることがあった。ただ、一説によればアステカはこのような儀式を毎月おこなったために生産力が慢性的に低下し、社会が弱体化、衰退したとも言われている。
[[インカ帝国|インカ]]でも、同種の[[太陽信仰]]に絡む人身御供を行う風習があったが、これらの生贄は社会制度によって各村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられていたという。なおこれらの人々は旱魃(かんばつ)や飢饉などの際には供物として装飾品に身を包んで泉に投げ込まれるなりして殺された訳だが、そのような問題が無い場合には生き延び、一定年齢に達して一般の社会に戻った人も在ったという。ちなみに[[マヤ文明]]の[[遺跡]]で有名な[[チチェン・イッツァ#カスティーヨ|ククルカンの神殿]]と[[チチェン・イッツァ#セノーテ(聖なる泉)|聖なる泉]]は、干ばつになった時の生け贄の儀式と関係があった。[[日照り]]は雨の神ユムチャクの怒りによるものだと考えられていたため、14歳の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、儀式の後、聖なる泉に生け贄を護衛するための若者が飛び込み、その後貢物も投げ込まれていたインカでも、同種の太陽信仰に絡む人身御供を行う風習があったが、これらの生贄は社会制度によって各村々から募集され、国によって保護されて、神への供物として一定年齢に達するまで大切に育てられていたという。なおこれらの人々は旱魃(かんばつ)や飢饉などの際には供物として装飾品に身を包んで泉に投げ込まれるなりして殺された訳だが、そのような問題が無い場合には生き延び、一定年齢に達して一般の社会に戻った人も在ったという。ちなみにマヤ文明の遺跡で有名なククルカンの神殿と聖なる泉は、干ばつになった時の生け贄の儀式と関係があった。日照りは雨の神ユムチャクの怒りによるものだと考えられていたため、14歳の美しい処女を選び、少女は美しい花嫁衣裳を身にまとい、儀式の後、聖なる泉に生け贄を護衛するための若者が飛び込み、その後貢物も投げ込まれていた<ref>{{Cite web |author=後藤樹史 |url=, http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/fusigi_2/works_2/works_14_m.html |title=, 古代の不思議 マヤの聖なる泉 |work=, 不思議館 |accessdate=, 2013-06-29}}</ref>。
その一方で、アステカ同様に少年・少女が捧げられる事もあった。この場合には、やはり特別に募集され育てられていた少年・少女は、より神に近いとされる高山にまで連れて行き、[[コカ]]の葉を与えて眠らせた後に、頭を砕いて山頂に埋められた。特にこれらの生贄では、装飾された衣服に包まれた[[ミイラ]]も発見されている。その一方で、アステカ同様に少年・少女が捧げられる事もあった。この場合には、やはり特別に募集され育てられていた少年・少女は、より神に近いとされる高山にまで連れて行き、コカの葉を与えて眠らせた後に、頭を砕いて山頂に埋められた。特にこれらの生贄では、装飾された衣服に包まれたミイラも発見されている。
== 参考文献 ==
<!--この節には、記事本文の編集時に実際に参考にした書籍等のみを記載して下さい-->
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E8%BA%AB%E5%BE%A1%E4%BE%9B 人身御供](最終閲覧日:22-09-06)
=== 全体 ===
*{{Cite book|和書|title=* 日本国語大辞典 精選版 |year = , 2006|publisher= , 小学館|edition =, 電子版|ref={{SfnRef|2006|日本国語大辞典 精選版}}}}
=== 日本 ===
*{{Cite book|和書|author=* 次田真幸|year =, 1977|title= , 古事記(上)|publisher = , 講談社|, isbn =:4-06-158207-0|ref={{SfnRef|次田|1977}}}}
=== アジア ===
=== ヨーロッパ ===
* {{Cite book|和書|author1 = * 三浦清美(きよはる)|edition = , Kindle|year = , 2015|title = , ロシアの源流 中心なき森と原野から第三のローマへ|section = |publisher = , 講談社|, isbn = :978-4062582742|chapter = 第四章 最後の異教国家 リトアニア|ref={{SfnRef|三浦|2015|, 第四章 最後の異教国家 リトアニア}}}}* {{Cite book|和書|author = * 山内進|edition = , Kindle|year = , 2011|title = , 北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大 |section = |publisher = , 講談社|, isbn = :978-4062920339|chapter = , タンネンベルクの戦い|ref={{SfnRef|山内|2011|タンネンベルクの戦い}}}}=== オセアニア === === アメリカ === === アフリカ === {{節スタブ|date=2016年1月15日 (金) 14:35 (UTC)}}
=== 管理人が参照した文章 ===
* [http://muguyumi.a.la9.jp/index.html 介護士&民俗研究者 六車由実のページへようこそ!]、[http://muguyumi.a.la9.jp/ronbunlist.html これまでに発表した論文など]より
** [http://muguyumi.a.la9.jp/minzoku220.html 「『人身御供』と祭―尾張大国霊神社の儺追祭をモデルケースにして―」『日本民俗学』第220号(1999)](最終閲覧日:22-09-06)
* [http://iiduna.blog49.fc2.com/ 富士おさんぽ見聞録]より** [http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html 三股淵の生けにえ伝説](最終閲覧日:22-09-06)* [https://ameblo.jp/books-fu-sa/ 未知の駅 總フサ]より** [https://ameblo.jp/books-fu-sa/entry-12635989624.html 人身御供の儀式があった坂戸神社 袖ケ浦市坂戸市場](最終閲覧日:22-09-06)
== 関連資料 ==
<!--この節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい。書籍等の宣伝はご遠慮下さいこの節には、記事の編集時に参考にしていないがさらなる理解に役立つ書籍等を記載して下さい。書籍等の宣伝はご遠慮下さい-->** 山田仁史「人身供犠は供犠なのか?」『ビオストーリー』23号: 32−39頁、2015年* {{Cite book|和書|last=* フレイザー| first = , J.G.|year = 2003 |title = , 2003, 初版 金枝篇(上)|publisher = 筑摩書房 |, 筑摩書房, isbn :4-480-08737-0}}* {{Cite book|和書|last=* フレイザー| first = , J.G.|year = 2003 |title = , 2003, 初版 金枝篇(下)|publisher = 筑摩書房 |, 筑摩書房, isbn :4-480-08738-9}}* {{Cite book|和書|author= * 六車由実|title=, 神、人を喰う―人身御供の民俗学 |publisher=, 新曜社 |year= , 2003|, isbn= :978-4788508422}}* {{Cite book|和書|author= * 高木俊雄 |title=, 人身御供論 |publisher= , 筑摩書房 |year= 2018 |, 2018, isbn= :978-4480098962 }}
== 関連項目 ==
* [[チャンヤン]]:ミャオ族の大洪水伝承。人身御供が意味する概念が語られる神話と考える。
* [[人柱]]
* [[棄老]]
 
* キンブリ族
* ルーシ・カガン国
* トーロンマン
* 湿地遺体
* [https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/magazine/0709/feature05/index.shtml 湿地に眠る不思議なミイラ]
== 注釈==
{{デフォルトソート:ひとみこくう}}
[[Category:伝承列伝]]
[[Category:日本神話]]
[[Category:中国神話]]
[[Category:朝鮮]]
[[Category:棄老]]

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