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1,709 バイト追加 、 2022年9月6日 (火) 09:26
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<blockquote>此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免かれんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕へることになったのであるが、…(中略)…旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた</blockquote>
なお尾張國府の件は、旅人も捕まることを警戒して寄り付かなくなってしまうため、尾張藩が藩命を出して止めさせたとある<ref group="私注">尾張國府宮の直會祭は、元は祭関係者が「最初に出会った男」を捕らえるもので、旅人が生贄に限定されたものではなかったようである。体裁は穢れを人身御供に押しつけて殺す(穢れそのものを殺す)というものだが、國府宮は木曽川に近く、「川に穢れを流す」というような津島的な考え方があったのではないのだろうか? 尾張国には尾張猿田彦神社、犬山市の猿田彦神社など、川と関係する猿田彦神社が多く、猿田彦が川の神として扱われているように感じる。猿神に対して人身御供を捧げる話は多い。その多くは女性を捧げるものが多いのだが、猿神(川の神)に対して男性を生贄に捧げる習慣があったとすれば、元々人身御供の祭祀は生贄に性別を問わなかった可能性もある。猿田彦も「殺される神」であるので、人身御供は猿田彦の化身とされたのであろうか。裸の男、というのであれば蛭子も連想させる。川の神である猿田彦に見たてた男を殺したのであれば、ヤマタノオロチ退治との関連も示唆されるように思う。尾張國府宮に独特の祭祀といえようか。確か今昔かあるいは宇治拾遺に「生贄に選ばれた旅人の男が猿神を退治した」という話があったように記憶している。とすれば国府宮の祭祀は「旅人が猿神を退治したことこそが間違っている」というアンチテーゼのようにも思える。興味深いことである。</ref><ref>今昔物語には、巻第二十六第七に「美作国(現在の岡山県)神依猟師謀止生贄語」、第八に「飛騨国猿神止生贄語」がある。宇治拾遺物語には巻第十の六に「吾妻人生贄をとどむる事」があり、これは今昔物語の美作国の物語とほぼ同一の話である。尾張国府宮の祭祀と比較する場合、距離的に近い飛騨の物語とまず比較すべきと思う。旅人は、妻の身代わりになるとは知らずに隠れ里に留め置かれるが、妻によって生贄を求める猿神のことを知り、これを退治する。要は、「炎黄神話」が原型であることは明らかなわけだけれども、遠江では黄帝が犬に変えられてしまうし、尾張では「黄帝こそが生贄になるべきである」と国府宮の祭祀で主張されているように思う。尾張氏関係者が何故、「黄帝こそが生贄になるべきである」という祭祀を江戸時代に至るまで執念深く続けたのか。それは、尾張氏が炎帝の子孫であると自負していたからではないのか、と個人的には思うわけですが。尾張國府宮の直會祭は、本来追儺の祭祀ではなく、大元を辿れば炎帝に対する雨乞いの儀式か何かのように思います。静岡では、猿神に対する生贄は禁忌とされながら、事実上は総社の大国主を猿神に見たてて、女神を生贄に捧げる祭祀をやっているように思うわけですが。男衆が裸になるのは、彼らもまた生贄である、という表面的なジェスチャーのようにも感じます。</ref>。
折口信夫の論じた「まれびと信仰」では、外界から来た客人を神もしくは神の使者として扱うとしており、旅人を生贄とすることは、神に近い存在の巫女を生贄にすることと共通点があると考察される。

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