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1,305 バイト追加 、 2022年8月4日 (木) 19:13
 3項のムルア・サテネは、物語の中では自発的に姿を消すことにはなっていて、他者から「罰を受けている」という要素は乏しくなっている。しかし、彼女が「身を隠す」ことが一種の「引責辞任」のような性質を帯びていたとすれば、彼女は人々のリーダーとしての役割を果たせなかった点について、自ら責任を取る、という形で罰を受けて姿を消したのかもしれない。
 そして、本項の最大の問題は、「'''ハイヌウェレの死が予定されていた意図的なもの'''」であるなら、なぜ人々はその死の責任を取り、サテネもこの世を去らねばならなかったのだろうか、ということに尽きる。現代的に考えれば、子供の身の安全を守るのは、まず第一に親でなければならない。」であるなら、なぜ人々はその死の責任を取り、サテネもこの世を去らねばならなかったのだろうか、ということに尽きる。現代的に考えれば、子供の身の安全を守るのは、まず第一に親でなければならない。とすればアメタにはハイヌウェレの身の安全に気を配り、危険な祭りに行かせなかったり、危険が及ばないように護衛をつけたりする義務があった、と言えないだろうか。現代的に考えればアメタには「親としての監督義務」があった、と思われるが、それは果たされていない。その代わりにサテネや人々が責任を負って罰を受ける、というのであれば、彼らは'''アメタの身代わりとなって罰を受けた'''ともいえる。物語の中で、人の生死に関わる問題を起こしても罰されない者が二人居る。それは、'''アメタ'''と'''トゥワレ'''である。よって、彼らは'''社会的地位が高く、何をやっても罰されることがない'''存在だ、ということが分かる。彼らの行動に落ち度がある場合、より地位の低いサテネや人々が罰を受けなければならない。例えば、天災などが起きた場合に、人々は神に祈っても祈りが届かなかった、と感じる。神が絶対的な存在であって、罰を与えることができなければ、神と人との間に入ったシャーマンや神官の働きが悪い、とされる文化はままある。
==== まとめ ====

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