1項のハイヌウェレの死は、「食物起源神話」としては、後述の后稷の神話のように、「死体が植物(穀物や芋類)に化生した」という単純な死体化生の神話が、社会学的な群像劇ともいえる大きな神話に取り込まれたものと考える。おそらく植物のそばに死体を植えると、肥料になって植物が良く育つ、という現象から生じた神話ではないだろうか。特に芋類を栽培する人々は焼畑農業を行い、経験的に灰が肥料になる、ということも知っていたであろうから、人や動物を焼いた灰から栽培植物が発生した、と考えても不思議ではない、と思う。社会という組織が発展してくると、「生贄」という名前の「肥料」を選ぶのに、社会的な基準というものが必要とされたかもしれない、と思う。曰く、「悪いことをした罪人である」とか、単に「身分が低いことそのものが悪である」というような考え方である。あるいは「生贄」ということに神秘的な意味を敢えて持たせたければ、特殊な身分の人を選んだり、場合によっては上位の身分の人を敢えて拉致するような形で選ぶようなこともあり得たかもしれない。后稷の場合は、特に生贄にされたわけではないけれども、人外ではない「巨人」の子として描かれていたりして、彼に神秘的な側面を持たせている。
2項のヴェマーレ族の人々の変化(変身)は、ヴェマーレ族が多くの動物、精霊、氏族の先祖である、という由来譚が組み込まれたものと考える。変化したものは、ヴェマーレ族から分かれたものなのだから、当然「親」としての権利はヴェマーレ族にあると思われ、単なる由来譚だけでなく、発生したものたちに対するヴェマーレ族の優位性、支配性を示して正当化する目的も含まれていると考える。「罰」の意味については後述する。
3項のムルア・サテネは、物語の中では自発的に姿を消すことにはなっていて、他者から「罰を受けている」という要素は乏しくなっている。しかし、彼女が「身を隠す」ことが一種の「引責辞任」のような性質を帯びていたとすれば、彼女は人々のリーダーとしての役割を果たせなかった点について、自ら責任を取る、という形で罰を受けて姿を消したのかもしれない。
そして、本項の最大の問題は、「'''ハイヌウェレの死が予定されていた意図的なもの'''」であるなら、なぜ人々はその死の責任を取り、サテネもこの世を去らねばならなかったのだろうか、ということに尽きる。現代的に考えれば、子供の身の安全を守るのは親でなければならない。
==== まとめ ====