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27,493 バイト除去 、 2022年7月30日 (土) 00:42
/* 男性の役割について *
と、序列に従って延々と続くことになる。'''サテネ'''という女神はそれぞれの<span style="color:red">'''自分'''</span>の部族の「母親」である。'''トゥワレ'''はそれぞれ、自分の部族では狩人でありシャーマンだけれども、<span style="color:red">'''下位の部族'''</span>に対しては「太陽神」であり「'''支配者(父親)'''」ということになる。'''「管理人(支配者)」の象徴を「太陽神」'''とするのであれば、太陽神であるのは「猿のサテネ女神」、「猿のトゥワレ」、「バナナのトゥワレ(アメタ)」ということになり、複数の太陽神が存在することになるが、'''女性の太陽神'''は'''ただ一人'''ということになる。男性形の太陽神は大勢いるが、彼らは'''女性の太陽神の代理'''としての支配者だ、といえる。だから「トゥワレ」という名前の男性の太陽神は各部族にいて、それぞれが太陽神である。「サテネ」という母女神も各部族にいるのだけれども、彼らは大抵の場合太陽神ではない、し、もしかしたら月の女神にしたり、大地の女神にしたり、水の女神にしたりするのも'''任命者次第'''ということになるのかもしれない、と思う。ヴェマーレ族の場合、ラビエは「月の女神」に任命された。ラビエとサテネが「同じもの」であるならばサテネも月の女神に任命された、ともいえる。しかし、下位の女神をトゥワレが自由に任命できるものであるならば、必ずしも「母女神」は一人である必要はない、ともいえるのではないだろうか。そう考えれば、ラビエは「月の女神」に任命されたが、サテネは死んで「黄泉の女神」に任命されたかもしれない。彼らを「一つの女神」とするのか、「複数の女神」とするのかもトゥワレの判断次第である。そうすればトゥワレの判断次第で、ラビエとムルア・サテネは「別のもの」ともいえることになる。とすれば、ラビエはムルア・サテネから分かれた「一面相」といえるかもしれないが、「全く別の神」ともいえる。ヴェマーレ族の場合、本当はどのように考えられていたのだろうか。その点を彼らの社会構造からきちんと考察していない点がイェンゼンの「至らない点」といえる。露骨な「民族差別思想」を「文化の一種」と言っちゃう吉田とかは、同じ日本人として恥ずかしい、という以外、個人的には言葉が出てこない気がするわけである。
 
 
 
 
 一方、死せるハイヌウェレはアメタあるいはトゥワレと接触することでイモ(月)に変化する。アメタとトゥワレはこのように性質の一部が一致する。アメタとトゥワレで共通する点は、特にアメタを指して「<span style="color:red">'''上位鬼神トゥワレ'''</span>」と呼ぶこととする。「鬼」(キ) という漢字の原義は「死者の魂」であるので、本件での場合の「'''鬼神'''」とは「'''死んでいる神'''」のことを指す。日本語で「死神」と書くと、「死んでいる神」というよりは「他者を死なせる神」という意味になるため、「鬼神」とする。なぜ、アメタとトゥワレの共通点を指して「鬼神」とするかといえば、それはトゥワレ(とアメタ)の性質等による。ハイヌウェレが殺され、埋められる踊りは「'''夜'''」に行われる。とすれば乙女が地面の下に埋められるのは「'''夜'''」ということになる。トゥワレは太陽神であるが、夜は'''地面の下に沈んでいる'''。だから、夜であればトゥワレは地面の下から乙女を地中、すなわち'''自分の居場所'''に引きずり込むことが可能なのである。古代エジプト神話のように、太陽は夜間はいったん死んで、地面の下の黄泉の国を旅している、という考えもある。ヴェマーレ族の物語からのみでは、夜間の太陽が生きているものなのか、死せるものなのかははっきりしないが、昼間の太陽とは異なる、という点からも、夜間の太陽は「'''鬼神'''」とすることが妥当なように感じる。日本風にいえば、昼の太陽は「和魂」であるのだが、夜の太陽は「荒魂」となる、といえる。また、このように考えると、物語の中でははっきりとは語られないが、何故アメタが「<span style="color:orange">'''下位トゥワレ'''</span>」として祭りに参加しないのかが推察できるのではないだろうか。「<span style="color:red">'''上位鬼神トゥワレ'''</span>」であるアメタは、夜間は地面の下にいるので、人の祭りには参加できないのである。
 
 
 ハイヌウェレの物語のうち、第一段階の<span style="color:brown">'''アメタが狩ることで豚からココヤシが発生する物語'''</span>では、アメタは<span style="color:red">'''狩人'''</span>であり、豚を手に入れることのできる<span style="color:red">'''獣の王'''</span>であり、獲物を祖神であるムルア・サテネに捧げて獲物以外の豊穣(ココヤシ)を得る<span style="color:red">'''シャーマン'''</span>でもある。この段階でのアメタは、人々の中でも、特に神の世界に近い存在、といえるかもしれないが、独立して「神」とする要素までが強いとは言えないように思う。日本人であれば、例えば新嘗祭のように、収穫の一部を神に捧げて、感謝の気持ちを示すと共に、その代わりに人々の安泰やその後の豊穣を願う、という考え方は理解しやすいのではないだろうか。その他にも、神に瓜類を捧げて雨乞いをする、等がある。捧げるものが動物であれば動物の命は失われるかもしれないが、例えば豚は食物でもあるのだから、特に家畜の場合は、いずれその生命は人間のために消費される運命であるので、動物を生贄にしても非日常な「命の消費」とまでは言えない、と考える。神に瓜を捧げるのも、豚を捧げるのも、意味としては同じで、「食料を捧げて見返りを求める」のである。
 
 
 第二段階の<span style="color:brown">'''アメタの血を媒介としてハイヌウェレが発生する物語'''</span>では、アメタの体液(血)とココヤシの花が結合して、普通のココヤシの実ではなく、乙女ハイヌウェレが誕生する物語である。これは一種の「神婚」であって、男女の結合の末に子供が生まれることを意識した神話だといえる。ただココヤシの花が咲くだけではココヤシの実しかならないが、アメタと結合することで、「人間」が生まれる。植物と結合して、特殊な子供を得る能力があることを「'''特別'''」とするのであれば、アメタはやや「'''特別な存在'''」となり、「'''神'''」に一歩近づいた、ともいえる。おそらく、第一段階と第二段階の物語の橋渡しとして、<span style="color:brown">'''アメタ(人間)の体液と供物を結合させたものを女神に奉納し、そこから新たな豊穣を得る。'''</span>という神話が存在したのではないか、と思う。これを仮に<span style="color:brown">'''前第二段階'''</span>と呼ぶ。神と人間が交わる、という神話は世界の各地を見ても、さほど珍しい概念ではない。ギリシア神話では女神も男神も人間の愛人を持つ。日本の神話では各氏族の先祖は神とされることが多いから、神は代が下るうちに人間と交わって、人間に近くなっていく存在である。ヴェマーレ族も祖神的存在であるムルア・サテネは限りなく神に近い存在だが、その子孫の一般の人々は人間である。
 
 ただし、現実には人と動物、人と花が交わって新たな生命が生まれることはない。そこで、アメタとココヤシが交わって新たな命を得る、ということは現実にはあり得ないことなので、それはあくまでも宗教的、神話的概念にとどめて、「アメタが特別に神的な人だったから可能であった」というフィクションとしての概念で、祭祀ではその真似事をするだけに留めるのか、それとも神話を現実のものとするために別の方法を模索するのか、ということになる。例えば、人を動物や植物になぞらえ、'''人を動物や植物の代理物のように扱って'''、動植物の代理の人とアメタのような<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>とが交わって新たな生命を得る、という具合にである。この場合、<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>と<span style="color:green">'''食物代理人間'''</span>との間に子供を作ることは可能となる。ただし、ハイヌウェレのような<span style="color:green">'''食物代理人間'''</span>は普通の人間である<span style="color:orange">'''下位トゥワレ'''</span>の食物、ということになるので、ここに人類は平等ではなく、「'''階級'''」というものが発生してしまうように思う。その序列はシンプルに
 
 
<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>(アメタ) > <span style="color:orange">'''下位トゥワレ'''</span>(一般の人々) > <span style="color:green">'''食物代理人間'''</span>(ハイヌウェレ)
 
 
となる。ハイヌウェレは宝物を出したり、「神」といって良いような特別な能力があるにも関わらず、「食物」であるが故に一般の人々よりも階級は下とならざるをえない。そして、アメタや人々の食物となる運命なのである。アメタは'''食物を育て、人々に供給する神'''ともいえ、その象徴としてアメタの職業は「'''狩人'''」「'''シャーマン'''」「'''食物供給神'''」となる。シャーマン的なアメタが、何らかの心的な交流で狩りの獲物を多く捕り、動物を自在に操れる存在と見るならば、アメタのことを「'''獣の王'''」と見ることも可能かもしれない。植物や動物といった「食物」を一体のものとして見るのであれば、アメタは「'''植物の王'''」ともなり得る。食物が野生動物の場合、アメタは「'''獣の王'''」、家畜の場合「'''良き牧人'''」、植物の場合「'''植物の王'''」となって、家畜や食物の生殖と繁殖を盛んにし、人々のために多くの食料を供給する。そのような能力がアメタを、他の人々とは区別した<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>となさしめている。
 
 一方、「'''アメタの血'''」が新たな食物神の発生源となっているので、その取扱にも注意が必要であるように思う。これが「アメタの一部」を指すのであれば、アメタは祭祀の際に、一滴の血液を提供するのみで、「'''狩人'''」でも「'''シャーマン'''」でもあり得る。しかし、「'''アメタの血'''」が「アメタ全体」を指す象徴としての意味しか持たない場合には、アメタは祭祀の際に命を提供しなければならないことになる。こうなると、アメタは「'''狩人'''」や「'''シャーマン'''」としての職業を兼任できなくなる。この場合、第三の考え方が登場するように思う。例えば、誰かをアメタの代理に、すなわち<span style="color:red">'''トゥワレ代理人間'''</span>として生贄に捧げるのである。そうすると、アメタは「'''生贄'''」でもあるし、「'''狩人'''」「'''シャーマン'''」あるいは「'''食物供給神'''」を兼任することができる。例えば、フレイザーの述べる「ネミの森」の祭祀は、奴隷が森のアルテミス女神に捧げられるものだが、この行為はローマ皇帝の地位と関係しており、奴隷を捧げることで、皇帝の地位や国家が安定するとも考えられていた。奴隷は女神に対する「'''生贄'''」であるが「'''皇帝の代理人'''」でもある。皇帝は自らが「'''生贄'''」になって、国家守護の女神にその身を捧げる代わりに、代理人を立てることで、「'''生贄'''」と「皇帝」(すなわち、「'''狩人'''」と「'''シャーマン'''」)、「'''食物供給神'''」を全て兼任することができる。
 
 
 アメタが「動植物と交わる存在」である点に注目すると、子孫を残す場合、アメタ自身が豚であったり、ココヤシであった、という神話を作ることも可能である。古代の人が植物の「生殖」をどのように捕らえていたのかは正確には分からないが、「動物と同じようなもの」だと考えていたか、あるいは神話に関するもので、ある程度植物を擬人化することを試みたのであれば、植物を動物化して考えることもあったろう、と思う。アメタが擬人化した豚の神だったのなら、祭祀的には豚と交わって豚の子孫を、アメタが擬人化したココヤシだったのなら(現実に植物には人間のようには雌雄の差がないことが多いが)、ココヤシの子孫を得ることが可能である。アメタは時に豚でもあるし、ココヤシでもあるし、その両方でもある、ということになる。そして、その場合には、豚やココヤシそのものが祭祀の場で「アメタ(シャーマン)の代理」とされたかもしれない。これはシャーマンの代理をする特別な動植物なので、<span style="color:green">'''非人間食物神'''</span>といえる。この場合序列は
 
 
<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>(アメタ) > <span style="color:orange">'''下位トゥワレ'''</span>(一般の人々) > <span style="color:green">'''非人間食物神'''</span>(ハイヌウェレ=ココヤシ)
 
 
となる。例えば、古代エジプトではアピスという聖牛がプタハという神の化身あるいは代理と考えられていた。聖牛プタハは神の化身として大切にされ、人間の女性と交わったりしていたようなので、祭祀として生殖能力が豊穣をもたらす「'''父なる神'''」とみなされていたと考えられる。彼には人間の豊穣も期待されたかもしれないが、人の役に立つ牛の豊穣も期待されたことだろう。牛は食物でもあるから、アピスはまさに<span style="color:green">'''非人間食物神'''</span>といえる。この牛もネミの森の奴隷と同じく、生きて役に立つ、とみなされているうちは大切にされたが、一定の条件を満たす時期が来ると殺された。彼らは<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>の代理であり、身代わりとして生贄となるための存在だからではないだろうか。どうやら、時代が下ると、彼らは「<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>の身代わりが果たせなくなると」、本来の生贄としての定めに従って殺されるようになっていったと個人的には考える。そして序列としては
 
 
<span style="color:green">'''食物代理人間'''</span> = <span style="color:green">'''非人間食物神'''</span>
 
 
といえる。そして雄の動物がアメタの代理動物として生殖や繁殖の豊穣をもたらすのだから、動物は「'''人間の食料の父'''」であるし、アメタそのものが「'''人間の食料の父'''」だ、といえる。生産された食料をアメタ自身も食べるだろうから、アメタは「'''我が子を食らう父親'''」でもある。ハイヌウェレ神話ではアメタはハイヌウェレの殺戮に反対しているように見えるが、ハイヌウェレの死体をイモに化生させているし、おそらく食料としてのイモは食べただろうから、アメタもまた「'''我が子を食らう父親'''」である。神話の中では、ハイヌウェレ自身もアメタの娘であるかのように表現される。
 
 そして、このように動物や植物、時には代理の人間を「父なる神の代理」として扱って、一時的には神のように大切にする、となると、その期間にもよるだろうが、動植物そのものが神なのか、人が神なのか、動植物と人は一体のものなのか、それとも別のものなのか、'''宗教的'''あるいは'''神話的'''に混乱を生じるように思う。現実の世界では、人と動物と植物が一体なって、それぞれの姿を行ったり来たりすることはないが、神話や伝承の世界では人型の神々が動物や植物に生きたまま姿を変えたり、死んで姿を変えたり、また元に戻ったり、自然に変化したり、殺されることで変化したり、魔法の力で変身したり、変身する能力を上位の神から授かったり、様々なバリエーションが存在する。
 
 
 しかし、今一度、「<span style="color:brown">'''アメタが食物を神であるムルア・サテネに捧げて、見返りを求める'''</span>」という形に戻って考えてみたい。人類の太古の文化が「母系」である場合、家長である女性に対して「男の兄弟」や「息子」は存在するが、文化的な「夫」や「父親」は存在しない。男性は自らが生まれた家に属するものであって、恋人と会うために外に出かけることはあっても、帰ってくるのは生まれた家だし、家族としての彼の義務や責任は生まれた家の自らの家長(母親や姉妹)に対して生じるのである。'''「父親」が存在しなければ「父なる神」'''は存在し得ない。子孫を残すのに、「'''特定のアメタ(個人としての男性)'''」は必要ないのだ。特に優れた能力を持つ男性が存在したとしても、彼は自らの生物学的な子供達の「父親」でもないし、「家族」でもないのである。しかし、これは現代でも同じだろうが、古代においても女性は優れた能力を持つような男性の子供を生みたいと思うし、恋人として家に来て欲しい、とは思ったかもしれない。ともかく、特定の「'''父なる神'''」というものが文化的に登場するのは、「父親」というものが文化的に登場してから以後のことと推察する。すなわち、人類の文化が母系から父系へと移行して、アメタは「'''父なる神'''」に昇格したといえる。それ以前は、彼は姉妹か母親の女神に仕える「狩人(獣の王)」であったり、「植物」だったのではないだろうか。アメタのもたらす獣や植物の収穫物、'''アメタの一部'''として女神を支える代わりに、新たな豊穣が人々へと与えられる。
 
 
 <span style="color:brown">'''アメタの血を媒介としてハイヌウェレが発生する物語'''</span>について。ココヤシの花とアメタの血(体液)が交わってハイヌウェレが生まれることは「'''父親'''」の誕生でもあり「'''父なる神'''」の誕生でもある。ただし、その前段階として、<span style="color:brown">'''アメタ(人間)の体液と供物を結合させたものを女神に奉納し、そこから新たな豊穣を得る。'''</span>という宗教的概念や神話があったとする。「体液」を「人間全体」とみなしても良いかもしれない。ともかく、人間と供物を結合させることは「'''神婚'''」といえる。ただし、母系社会の場合、家族内での近親の結合があり得ないとすれば、'''体液を提供するアメタ'''とは、「兄弟や息子であるアメタ」ではなく、余所の家の家族のアメタ(男性)、他部族のアメタ(男性)ということになる。アメタが精液になぞらえて、「体液(あるいはアメタ自身)」をヴェマーレ族に提供する時は、「他部族のアメタ」となるしかないのであれば、ハイヌウェレ神話の「'''アメタ'''」はムルア・サテネにとって「<span style="color:red">'''兄弟や息子であるアメタ'''</span>」と「<span style="color:blue">'''他部族のアメタ'''</span>」の二重の性質を持つことになり、少なくともムルア・サテネにとって「'''二人(二種類)の男性'''」を結合させた、現実ではあり得ない神話的存在であることが分かる。また、他部族の者を「動物」や「植物」になぞらえて、「'''動植物と結合させて種とする存在'''」として生贄に用いるのであれば、そもそも生贄に「男女の差」は必要なかったのではないだろうか、と思う。特に植物は一見して、雄とも雌とも見分けがつかないものであるし、擬人化するにしても、状況に応じて、男性とみなすことも、女性とみなすこともできそうである。ヴェマーレ族は「バナナの女神であるムルア・サテネ」の子孫なのだから、男性も女性も「バナナの化身」であって。男女の差はない。ただ、彼らの豊穣のためには「'''種としてのよそ者'''」が必要とされる、ということになる。
 
 
 ハイヌウェレの死と共に、ムルア・サテネもまた姿を消すのだから、ハイヌウェレはムルア・サテネ自身でもある。すると、ハイヌウェレはココヤシなのだから、ムルア・サテネはココヤシでもあることになる。ムルア・サテネはヴェマーレ族全体の「母」でもあるのだから、ヴェマーレ族そのものでもある。よって、ムルア・サテネとそれぞれの個々のアイテムとの関連は、'''全てがムルア・サテネから発生した、ムルア・サテネの一部'''であり、一部が死んだとしても本体であるムルア・サテネの生死にまで影響を与えることはないはずである。ヴェマーレ族が特別にムルア・サテネと連動して「不死の存在」だったとしても、猪やココヤシの実は食べていたのだろうから、死に行く存在が全くなかったわけではない。ハイヌウェレは生贄といえるが、彼女をムルア・サテネと同じ位置につけることで、'''女神の地位の狭小化'''が計られている、と言えないだろうか。あらゆるものの「'''母'''」であったはずのムルア・サテネは、その性質をせいぜい「'''イモの化身'''」に限定されてしまっている。
 
 
 <span style="color:brown">'''歴史的考察についてのまとめ'''</span>。母系社会において、太陽女神が母女神であった時代には、アメタは女神に生贄を捧げて豊穣を求める存在、'''女神を支える存在'''だった。そもそも「太陽女神」とは、天にある太陽を神格化し、擬人化・擬動物化したものといえ、人の世界では人間が「神の化身」とか「神の代理人」と考えられたであろうが、特定の個人を指すものではなかった、と考える。例えばネパールのクマリのように「人としての太陽女神」は'''女神でもあるが一定の条件を満たせば、次の者にその地位が継承されるもの'''でもあったと思われる。たとえ女神が終生女神であったとしても、人としての死が訪れれば、その地位は自然的に次の女神に受け継がれる。それは現代的には首相とか大統領といったような「'''職能'''」のようなものだと考えた方が理解しやすいかもしれない、と思う。一人一人の代々の女神は、人間でもあり寿命もあるが、その地位が代々途切れなく継承されることで、「'''太陽女神は永遠のもの'''」となるのである。ハイヌウェエレ型神話に当てはめれば、「ムルア・サテネ」は「女神としての職業」であり、「ハイヌウェレ」は「代々のムルア・サテネの内の一人」ということになろう。どちらも「同じ女神」なのだが、「ムルア・サテネ」は個人ではなく、「ハイヌウェレ」は'''個人'''なのである。ヴェマーレ族がハイヌウェレ神話に基づく祭祀をどの程度行っていたのかは定かでないが、これが単なる神話の内に留まり、祭祀として定期的に行う形式がなければ、「ハイヌウェレ」は'''個人'''の域を出ない。神話の中で、アメタが「不幸な出来事」と考えたように、一人の少女が不幸な死に方をした、という個人の物語である。この神話に沿った祭祀がある程度存在していれば、祭祀の度に「ハイヌウェレ」の役を務める者が必要となる。これについて人間の娘を生贄にするのか、イモ類を代替にするのか、あるいは他の者を代替とするのかは文化や考え方の差によろうが、人や何かを殺すこと、を「連続的」に常に行うことは不可能である。(そのようなことをしたら、しまいには部族の者は一人もいなくなってしまうであろう。)とすれば、「ハイヌウェレ」は「常に存在する」というような連続性のある存在とはなり得ず、「職能」とみなすとしても、それは「祭祀の時だけ」というように断続的な存在にしかなり得ない。「ハイヌウェレ」は「ムルア・サテネ」のように「'''永遠'''」の存在にはなれない。「ムルア・サテネ」と「ハイヌウェレ」はこのように、「同じ者」であっても「異なる者」なのである。よって、「ハイヌウェレ」の死と共に、「ムルア・サテネ」の'''職能や権限の狭小化、死'''、が誕生するのであれば、そのような思想は、本来のムルア・サテネの全能性に沿わない思想であるため、'''後から人為的に付け加えられたもの'''と言うしかないのである。
 
 
 
アメタは女神の親族だが、生贄は「種(たね)としてのよそ者」であって、本来はアメタと区別される存在だった。生贄は、豊穣を求める動物や植物と一体化することを象徴するために、'''生贄の動植物と共に生贄に捧げられ埋められたりした'''。概念的なものだけでなく、現実にも人間の生贄を他部族に求めるようになれば、当然他部族との軋轢が生じる。結果、'''種'''扱いしかされなかったよそ者の生贄が反乱を起こし、ある程度女神の地位にとって代わることになったのだと思う。それが'''豚の太陽'''である。生贄になるはずだったものが、逆に太陽女神を殺し、自らが太陽神を名乗るようになった。そして、その子孫も自らを「'''豚の太陽'''」の化身と名乗るようになったが、一方豚は「'''生贄の動物'''」でもあり続けたので、「'''豚は神なのか、それとも神に捧げる生贄なのか'''」という点で混乱が生じることになった。また太陽女神を始めとして殺された神々は、それぞれに職能があったために完全に排除することはできず、新たに作り直したり、焼き直したりする必要があった。そこで、'''古き神々を神とするのか'''、それとも'''反乱を起こした英雄を神とするのか'''でも混乱が生じることになった。古き神々を「神」とするならば、彼らを倒した英雄は悪者で、せいぜい邪神にしかなり得ない。瓜子姫に害をなしたアマノジャクのようなものである。反乱を起こした英雄を正しい神とするならば、古き神々はまさにヤマタノオロチのような悪神ということになる。問題の解決法の一つとして、神々を「何でも同じ物」として一つに纏めてしまう方法が試みられたのだと思う。特に男性神を「古き神と新しい神の二つをまとめた存在」としてしまったために、アメタは女神に仕える存在だったのに、その一方で女神を殺して食べてしまう存在にもなる、という矛盾を含む神話が、矛盾を中途半端に解消しようとしたまま作られてしまったのだと思う。実際、これは「黄帝と蚩尤が同じ物」であるとしたり、「テーセウスとミーノータウロスが同じ物」であるとすることと同じなので、物語が伝播する過程で、各民族、各氏族に神話作家達が混乱した物語を作り出してしまっても仕方にないことといえよう。
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