ラビエの物語では、ラビエはヴェマーレ族の女性だが、太陽神トゥワレに妻として求められ、殺されてしまう。このように身内から生贄が立てられる場合を<span style="color:red">'''身内型ハイヌウェレ'''</span>とする。とする。ラビエは「妻」として求められているのだから、男性では不可能と思われる。彼女の意思はハイヌウェレの時と同様尊重も確認もされない。そして、ハイヌウェレはイモや財物扱いで、現実に役に立つものに変えられてしまうが、ラビエは月に変化してしまう。'''月'''は、直接人々の生活にどのように関わるのかは明確にされていない。ラビエの死の意味は何なのだろうか? オーストロネシア語族は「射日神話」を持つ人々でもある。台湾の射日神話では、「2つの太陽を射落としたところ、落ちた方は'''死んで月に変化した'''」というものがある。ラビエが'''死んで月に変化した'''という神話と比較すると、ラビエとは「'''射落とされて死んだ太陽'''である」ということができる。ということは、ムルア・サテネは本来「'''太陽女神'''」だったのではないだろうか。ラビエはムルア・サテネの一部である。ただし、ヴェマーレ族の神話ではムルア・サテネは太陽神ではない。太陽神はトゥワレである。すると、ラビエの物語は、'''トゥワレが本来の太陽神であったムルア・サテネを殺して、太陽神になりかわり、ラビエという月に変えてしまった'''、という話ではないだろうか。
ハイヌウェレの死と共に、ムルア・サテネもまた姿を消すのだから、ハイヌウェレはムルア・サテネ自身でもある。すると、ハイヌウェレはココヤシなのだから、ムルア・サテネはココヤシでもあることになる。ムルア・サテネはヴェマーレ族全体の「母」でもあるのだから、ヴェマーレ族そのものでもある。よって、ムルア・サテネとそれぞれの個々のアイテムとの関連は、'''全てがムルア・サテネから発生した、ムルア・サテネの一部'''であり、一部が死んだとしても本体であるムルア・サテネの生死にまで影響を与えることはないはずである。ヴェマーレ族が特別にムルア・サテネと連動して「不死の存在」だったとしても、猪やココヤシの実は食べていたのだろうから、死に行く存在が全くなかったわけではない。ハイヌウェレは生贄といえるが、彼女をムルア・サテネと同じ位置につけることで、'''女神の地位の狭小化'''が計られている、と言えないだろうか。あらゆるものの「'''母'''」であったはずのムルア・サテネは、その性質をせいぜい「'''イモの化身'''」に限定されてしまっている。
オーストロネシア語族は「射日神話」を持つ人々でもある。台湾の射日神話では、「2つの太陽を射落としたところ、落ちた方は'''死んで月に変化した'''」というものがある。ラビエが'''死んで月に変化した'''という神話と比較すると、ラビエとは「'''射落とされて死んだ太陽神'''」ということができる。ということは、ムルア・サテネは本来「'''太陽女神'''」だったのではないだろうか。一方アメタが狩人で、「獣の王」であったとすると、イノシシはアメタ自身ともいえる。また、イノシシはアメタが狩ってくる「'''種としてのよそ者'''」の象徴でもあった。すると「太陽神トゥワレ」とは、イノシシでもあり、太陽女神に種を提供するだけの存在が、逆に「太陽女神を植物と同じものとすること」で、彼女を食い殺してしまい、「'''太陽神を食べて太陽神と同一化したが故に'''」太陽神となった神なのではないだろうか。一方、ムルア・サテネの「母として生み出す機能」は全て失ってしまうと新たな生命が誕生しなくなるので、彼女には「月の女神」として地位が与えられたのではないだろうか。ムルア・サテネの死と、その機能の大幅な制限は「'''母系の文化の失墜'''」である。人々は母系の女神が部族と共に連綿と続くという「永遠性」を失い、いずれ時期が来れば化身である「子供」を生贄として食い尽くしてしまう豚のトゥワレ(アメタ)に食われて、彼と一体となるために死ぬ運命を背負うことになった。