== 四川における「蚕女(馬頭娘)」信仰 ==
『太平広記』が引用した『原化伝拾遺』には続いて、蚕女の遺跡は広漢に存在し、什邡・綿竹・徳陽の人々が毎年宮観にある少女の塑像に馬の皮を着せて「馬頭娘」と呼び、桑や蚕を供えて祈る儀式があったという。また、徳陽には蚕女の廟や墓が伝わったとされているが、清の時代に洪水の影響で荒廃したと、同治13年(1874年)編纂の『徳陽県志』は伝えている。
== おしら様について ==
'''おしら様'''(おしらさま、'''お白様'''、'''オシラ様'''、'''オシラサマ'''とも)は、[[日本]]の[[東北地方]]で[[信仰]]されている[[家]]の[[神 (神道)|神]]であり、一般には[[蚕]]の神、[[農業]]の神、[[ウマ|馬]]の神とされる<ref name="tono14">{{Cite book|和書|author=柳田國男|authorlink=柳田國男|title=[[遠野物語]]|year=1910|publisher=聚綪堂|page=14}}</ref><ref name="tono_shuui">{{Cite book|和書|author=柳田國男|title=遠野物語|year=1935|edition=増補版|publisher=郷土研究社|pages=179-188|chapter=遠野物語拾遺}}</ref>。[[茨城県]]などでも伝承されるが、特に[[青森県]]・[[岩手県]]で濃厚にのこり<ref group="注釈">[[1998年]]の調査報告では、岩手県下で1,191戸が確認されている。長谷川(1999)pp.262</ref>、[[宮城県]]北部にも密に分布する<ref name="hagiwara">* 萩原秀三郎「おしらさま」[[小学館]]編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459</ref>。「'''オシンメ様'''」「'''オシンメイ様'''」([[福島県]])、「'''オコナイ様'''」([[山形県]])などの異称があり、他に'''オシラガミ'''、'''オシラホトケ'''、'''カノキジンジョウ'''(桑の木人形)とも称される。
=== 習俗 ===
==== ご神体 ====
[[神体]]は、多くは[[桑]]の木で作った1尺(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔や[[馬]]の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。[[貫頭衣]]のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある<ref name=hagiwara/>。普段は[[住宅]]の[[神棚]]や[[床の間]]に祀られていることが多い<ref name="tono14" /><ref name="tono_shuui" />。記年銘のある最古のおしら様は、岩手県[[九戸郡]][[種市町]](現[[洋野町]])に所在する[[大永]]5年([[1525年]])のもので、ついで岩手県[[下閉伊郡]][[新里村 (岩手県)|新里村]]および同郡[[川井村 (岩手県)|川井村]](いずれも現[[宮古市]])の[[天正]]2年([[1574年]])のものが古い<ref name=hasegawa>長谷川(1999)pp.262-263</ref>。神体は、[[男]]と[[女]]、馬と[[娘]]、馬と男など2体1対で祀られることが多い<ref name=hasegawa/>。
==== 命日 ====
おしら様の祭日を「命日(めいにち)」と言い、[[1月16日 (旧暦)|旧暦1月]]・[[3月16日 (旧暦)|3月]]・[[9月16日 (旧暦)|9月の16日]]に行われる。命日には、神棚などからおしら様を出して[[神饌]]を供え、新しい衣を重ね着させる(これを「オセンダク」という)。この日は、本家の[[老婆]]が養蚕の由来を伝える[[祭文]]([[おしら祭文]])を唱えたり、少女がおしら様の神体を背負って遊ばせたりするので、かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたとも考えられる<ref name=hagiwara/>。盲目の[[巫女]]である[[イタコ]]が参加することも多く、その場合、イタコがおしら様に向かって神寄せの[[経文]]を唱え、おしら様を手に持って祭文を唱えながら踊らせる。おしら様に限っては祭ることを「遊ばせる」といい、このような行事を「オシラアソバセ」「オシラ遊び」「オシラホロキ」と呼ばれる<ref name="tono_shuui" /><ref name=hagiwara/>。また、青森県[[弘前市]][[坂元 (弘前市)|坂元]]の[[久渡寺]]では「大白羅講」が5月15日に行われる。
おしら様の2体の人形をつかって遊ばせる際のおしら祭文としては、「きまん(金満)長者物語」、「満能長者物語」、「せんだん栗毛」、「[[岩木山]]一代記」などがあり、[[坂上田村麻呂]]伝承の[[猿賀神社]]の由来を同時に語るとも伝えられる<ref name="sinwadensetu">{{Cite book|和書|author=倉田隆延|editor=吉成勇|title=日本「神話・伝説」総覧|year=1993|publisher=[[新人物往来社]]|series=歴史読本特別増刊 事典シリーズ|isbn=978-4-404-02011-6|pages=314-315|chapter=オシラ様伝説(馬娘婚姻譚)}}</ref>。イタコが参与する場合は、このような[[祭文]]を語りながら、おしら様一対を両手にとって打ち振り、[[憑依]]したような状態になって[[託宣]]をおこなうことが多い<ref name=hagiwara/>。
おしら様の信仰には多数の[[タブー|禁忌]]がある。例えば、おしら様は二足四足の[[動物]]の肉や[[卵]]を嫌うとされ、これを供えてしまうと大病を患うとか祟りで顔が曲がるという。家人の食肉により[[祟り]]で顔が曲がるともいわれる<ref name="tono_shuui"/><ref name=hasegawa/>。また、一度拝むとずっと拝まなければならないといわれ、拝むのをやめたり、祀り方が粗末だと家族に祟りがあるともいわれている<ref name=hasegawa/>。
=== 伝承 ===
おしら様は、女の病の治癒を祈る神、目の神、子の神<ref group="注釈">おしら様は子ども好きな神様だといわれ、各地に、子どもたちと遊んでいるところを注意した大人が逆に祟られたり、火事から家を守ったなどの話が伝わる。長谷川(1999)p.262</ref>としてのほか、[[農耕神]]として[[田植え]]、草取り、穀物の刈り入れなどに助力するともいう。また『遠野物語拾遺』には、かつては狩人が[[狩猟]]の際、どちらの山に行けばいいかを知るため、おしら様の神体を両手に持ち廻し、その馬面の向いた方角へ行く風習があったため、おしら様は「お知らせ様」であろう、とある<ref name="tono_shuui" />。[[地震]]、[[火事]]などの予知力もあり、『遠野物語拾拾遺』では、おしら様を鉤仏(かぎぼとけ)と称し、正月16日の「おしら遊び」の日に子供たちが1年間の吉凶善悪の神意を問うたという<ref name="tono_shuui" />。この起源を中国の『[[捜神記]]』(晋代[[干宝]]撰)、『神女伝』(唐代)に求める説がある(「[[蚕馬|蚕女]]」)。おしら様信仰誕生の背景に山神信仰や、養蚕作業、生活の糧の馬に対する信仰その他が混ざり、原初的な多様な性格を有する神として成立したものとする見方もある<ref name="sinwadensetu" />。伊勢地方の[[天白神]]、または[[中国神話]]の「[[蚕馬]]」を原型とする見方もある。
=== 由来譚 ===
==== 馬娘婚姻譚 ====
東北地方には、おしら様の成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある[[農家]]に[[娘]]がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには[[夫婦]]になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、すがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、おしら様となったのだという<ref name="tono_shuui" /><ref name="tono54">{{Cite book|和書|title=[[遠野物語]]|pages=54-59}}</ref>。
『聴耳草紙』にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、[[臼]]の中の蚕虫を[[桑]]の葉で飼うことを教え、[[絹糸]]を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている<ref name="sinwadensetu" />。
==== <span id="たこ"></span>津軽の口承 ====
かつて盲人が峠の空家に泊り、寂しさを紛らわすために歌を歌っていると、歌を所望する女の声が聞こえたので、何曲か歌ってやった。夜明けの頃、女の声は自分を「たこ」と名乗り、自分のことを話せば命はないと戒めた。
里に降りた盲人が、つい村人に昨晩のことを話すと、そのまま死んでしまった。そこに「たこ」が現れ、村人たちに対しても、自分のことを他言した者は死ぬ上に村は沼に沈むと言った。そこで村人たちが峠の周囲を鉄柵で覆うと「たこ」は峠に帰れなくなり、そのまま死んでしまい、その正体は[[ヘビ]]であった。村人たちは「たこ」と盲人を神として祀り、これが後のおしら様だという<ref>{{Cite book|和書|author=内田邦彦|editor=池田彌三郎他|editor-link=池田彌三郎|title=日本民俗誌大系|year=1974|publisher=[[角川書店]]|volume=第9巻|isbn=978-4-04-530309-8|pages=428-429|chapter=津軽口碑集}}</ref>。
=== 図像 ===
岩手県[[遠野市]]の観光施設「[[伝承園]]」の御蚕神堂(おしらどう)には千体のおしら様が展示されている<ref>{{Cite web|date=2008-12-02|url=http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/25,10384,122,144,html|title=伝承園 - 遠野市|work=[http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/1,html 岩手県遠野市 永遠の日本のふるさと遠野]|publisher=遠野市役所|accessdate=2009-11-28}}</ref>。
[[宮城県]]の[[東北学院大学]]博物館には[[イタコ|オガミサマ]]に信仰された大乗寺に収められていたおしら様が所蔵されている<ref>[http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/facilities/museum/research01.html 主な収蔵品と調査研究] - [[東北学院大学]]</ref>。
おしら様信仰の[[図像資料]]としては、[[網野善彦]]・[[小沢昭一]]・[[宮田登]]・[[大隅和雄]]・[[服部幸雄]]・[[山路興造]]編集『大系 日本歴史と芸能 第11巻/形代・傀儡・人形』([[平凡社]]ビデオブック、1991年)が貴重な[[映像]]を多く収めており、青森県弘前市久渡寺の「[[オシラ講]]」、岩手県宮古市堀内の「オシラアソバセ」のようすが収録されている。
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
== リンク ==
* [https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/170235 おしらあそび] - [[文化庁]]文化遺産オンライン
== 参考文献 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9A%95%E9%A6%AC 蚕馬](最終閲覧日:)
* 袁珂 著/鈴木博 訳『中国神話・伝説大事典』(大修館書店、199年) ISBN 978-4-469-01261-3 「蚕女」「蚕女廟」「蚕馬」「馬頭娘」の各項目
* [[柳田國男]] 『[[遠野物語]]』 聚綪堂、1910年。
* 柳田國男 「遠野物語拾遺」『遠野物語』 郷土研究社、1935年。
* 長谷川浩「オシラサマ」『歴史と旅増刊 もっと知りたい神と仏の信仰事典』[[秋田書店]]、1999年1月。
== 参照 ==
{{DEFAULTSORT:はとうしよう}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:日本神話]]
[[Category:農耕神]]
[[Category:馬]]
[[Category:蚕]]
[[Category:桑]]