第二段階の<span style="color:brown">'''アメタの血を媒介としてハイヌウェレが発生する物語'''</span>では、アメタの体液(血)とココヤシの花が結合して、普通のココヤシの実ではなく、乙女ハイヌウェレが誕生する物語である。これは一種の「神婚」であって、男女の結合の末に子供が生まれることを意識した神話だといえる。ただココヤシの花が咲くだけではココヤシの実しかならないが、アメタと結合することで、「人間」が生まれる。植物と結合して、特殊な子供を得る能力があることを「'''特別'''」とするのであれば、アメタはやや「'''特別な存在'''」となり、「'''神'''」に一歩近づいた、ともいえる。おそらく、第一段階と第二段階の物語の橋渡しとして、<span style="color:brown">'''アメタの体液と供物を結合させたものを女神に奉納し、そこから新たな豊穣を得る。アメタ(人間)の体液と供物を結合させたものを女神に奉納し、そこから新たな豊穣を得る。'''</span>という神話が存在したのではないか、と思う。これを仮に<span style="color:brown">'''前第二段階'''</span>と呼ぶ。神と人間が交わる、という神話は世界の各地を見ても、さほど珍しい概念ではない。ギリシア神話では女神も男神も人間の愛人を持つ。日本の神話では各氏族の先祖は神とされることが多いから、神は代が下るうちに人間と交わって、人間に近くなっていく存在である。ヴェマーレ族も祖神的存在であるムルア・サテネは限りなく神に近い存在だが、その子孫の一般の人々は人間である。
ただし、現実には人と動物、人と花が交わって新たな生命が生まれることはない。そこで、アメタとココヤシが交わって新たな命を得る、ということは現実にはあり得ないことなので、それはあくまでも宗教的、神話的概念にとどめて、「アメタが特別に神的な人だったから可能であった」というフィクションとしての概念で、祭祀ではその真似事をするだけに留めるのか、それとも神話を現実のものとするために別の方法を模索するのか、ということになる。例えば、人を動物や植物になぞらえ、'''人を動物や植物の代理物のように扱って'''、動植物の代理の人とアメタのような<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>とが交わって新たな生命を得る、という具合にである。この場合、<span style="color:red">'''上位トゥワレ'''</span>と<span style="color:green">'''食物代理人間'''</span>との間に子供を作ることは可能となる。ただし、ハイヌウェレのような<span style="color:green">'''食物代理人間'''</span>は普通の人間である<span style="color:orange">'''下位トゥワレ'''</span>の食物、ということになるので、ここに人類は平等ではなく、「'''階級'''」というものが発生してしまうように思う。その序列はシンプルに
しかし、今一度、「<span style="color:brown">'''アメタが食物を神であるムルア・サテネに捧げて、見返りを求める'''</span>」という形に戻って考えてみたい。人類の太古の文化が「母系」である場合、家長である女性に対して「男の兄弟」や「息子」は存在するが、文化的な「夫」や「父親」は存在しない。男性は自らが生まれた家に属するものであって、恋人と会うために外に出かけることはあっても、帰ってくるのは生まれた家だし、家族としての彼の義務や責任は生まれた家の自らの家長(母親や姉妹)に対して生じるのである。'''「父親」が存在しなければ「父なる神」'''は存在し得ない。子孫を残すのに、「'''特定のアメタ(個人としての男性)'''」は必要ないのだ。特に優れた能力を持つ男性が存在したとしても、彼は自らの生物学的な子供達の「父親」でもないし、「家族」でもないのである。しかし、これは現代でも同じだろうが、古代においても女性は優れた能力を持つような男性の子供を生みたいと思うし、恋人として家に来て欲しい、とは思ったかもしれない。ともかく、特定の「'''父なる神'''」というものが文化的に登場するのは、「父親」というものが文化的に登場してから以後のことと推察する。すなわち、人類の文化が母系から父系へと移行して、アメタは「'''父なる神'''」に昇格したといえる。それ以前は、彼は姉妹か母親の女神に仕える「狩人」であったり、「植物」だったのではないだろうか。」に昇格したといえる。それ以前は、彼は姉妹か母親の女神に仕える「狩人(獣の王)」であったり、「植物」だったのではないだろうか。アメタのもたらす獣や植物の収穫物、'''アメタの一部'''として女神を支える代わりに、新たな豊穣が人々へと与えられる。
ヴェマーレ族はそもそも「バナナの子孫」であって、彼らのリーダーは「ムルア・サテネ」と呼ばれる若いバナナの化身の女神である。バナナは木の地上部に実をつけるが、芋類は地面の中で成熟する。リーダーが「若い女性(バナナ)」である点は、ネパールの現人神であるクマリが若い女性であることを彷彿とさせる。それはともかく、ヴェマーレ族は「バナナの子孫」なのだから、彼らは一人一人が「 <span style="color:brown">'''バナナであるアメタの血を媒介としてハイヌウェレが発生する物語'''」ともいえる。おそらく、リーダーが女性とされるのは、母系の文化だった頃の名残と考える。 ヴェマーレ族の神話には「アメタ」という独身の狩人がいる。彼は猪を仕留める。猪は、野生動物である時は「猪」だが、家畜では「豚」に相当する。豚は中国でもそうだし、ヴェマーレ族でも、祭祀での生贄(捧げ物)として重要な動物だし、重要な食物である。アメタの姿は猪がまだ家畜化される以前、家畜を屠るのではなく、狩りをして狩って来なければ、食料も神への捧げ物も手に入らなかった時代があったことを彷彿とさせないだろうか。猪からは「ココヤシの実」がみつかった。すなわち「</span>について。ココヤシの花とアメタの血(体液)が交わってハイヌウェレが生まれることは「'''イノシシとココヤシは同じ物父親'''」といえる。アメタはサロン・パトラ(蛇模様の布)で実を覆って持ち帰った。蛇とは多くの各地の神話で、何らかの」の誕生でもあり「'''神性父なる神'''を伴う動物である。特に「脱皮すること」を「生まれ変わり」や「再生」とみなす向きが多い。この場合、ココヤシの実は、蛇の皮にくるまれた蛇そのもの、といえるので、いずれ脱皮して何か別のものに再生することが暗喩されているように思う。とすれば「」の誕生でもある。ただし、その前段階として、<span style="color:brown">'''イノシシとココヤシと蛇は同じ物アメタ(人間)の体液と供物を結合させたものを女神に奉納し、そこから新たな豊穣を得る。'''」といえる。アメタはそれぞれの「</span>という宗教的概念や神話があったとする。「体液」を「人間全体」とみなしても良いかもしれない。ともかく、人間と供物を結合させることは「'''化生(再生)神婚'''」に関わっており、彼が狩人でもあるし、一種の霊的な媒介で」といえる。ただし、母系社会の場合、家族内での近親の結合があり得ないとすれば、'''シャーマン体液を提供するアメタ'''ともいえる。彼が狩った獲物(豚)を神に捧げて、ある種の儀式(この場合は蛇の皮にくるむこと)を行えば、それをココヤシの実を介して、更に別のものに変える力を持っている、といえる。それは神とアメタの共同で派生する能力といえよう。あるいはアメタが神から特別に授かった能力かもしれない。アメタはココヤシの実を脱皮させて別のものにするために蛇の皮でくるむ。 ちなみに、日本の民間伝承では、なにがしかの食用植物が人間に化生した例としては、瓜から生まれたとは、「兄弟や息子であるアメタ」ではなく、余所の家の家族のアメタ(男性)、他部族のアメタ(男性)ということになる。アメタが精液になぞらえて、「体液(あるいはアメタ自身)」をヴェマーレ族に提供する時は、「他部族のアメタ」となるしかないのであれば、ハイヌウェレ神話の「'''瓜子姫アメタ'''や桃から生まれた」はムルア・サテネにとって「<span style="color:red">'''桃太郎兄弟や息子であるアメタ'''がある。彼らは</span>」と「<span style="color:blue">'''川他部族のアメタ'''から流れてきた食用植物から生まれる。川や湖の神は蛇で現されることがままある。日本の物語に「狩人」であり「シャーマン」である者の存在は希薄だが、アメタがハイヌウェレを育てたことを考えれば、育ての親である「おばあさん」と「おじいさん」が瓜子姫や桃太郎の化生に関する</span>」の二重の性質を持つことになり、少なくともムルア・サテネにとって「'''シャーマン二人(二種類)の男性'''といえる。瓜子姫や桃太郎は蛇(川)から生まれた食用植物が変化したもので、彼らもまた蛇そのものといえ、その出生はハイヌウェレと」を結合させた、現実ではあり得ない神話的存在であることが分かる。また、他部族の者を「動物」や「植物」になぞらえて、「'''非常に近似して動植物と結合させて種とする存在'''いる。 アメタは夢のお告げによりココヤシの実を植えたが、お告げをした者の正体は明らかではない。可能性としてはバナナの女神であるムルア・サテネか、あるいは男性の太陽神トゥワレであろうと思われる。アメタはこのように、神々とも交流できる'''シャーマン'''である、といえる。また、ココヤシの実にアメタの血が触れると、ヤシの実から乙女ハイヌウェレが生じる。そうなると、「'''イノシシとココヤシとハイヌウェレは同じ物'''」といえる。血はアメタの'''体液'''であり、'''アメタの分身''''でもある。これは'''精液(の代わり)'''ともいえるかもしれない。イノシシとココヤシが'''女性'''といえるかどうかは定かでないが、'''ココヤシとアメタの結合'''からハイヌウェレは生まれている。ハイヌウェレの死と共に、人々にも死(寿命)というものが訪れたのであれば、ハイヌウェレは「不死」の象徴でもあり、イモ類に変化しなければ人々は彼女と同じ存在でいられたが、人々はイモ類を手に入れる代わりに不死を失ってしまっている。イモ類は'''食料でもあるが、人々に死をもたらすもの'''でもあるのである。ハイヌウェレの死と共にムルア・サテネも人々の世界から姿を消す。以上からハイヌウェレとムルア・サテネが「'''同一のもの'''」であることが示唆される。「'''地面の中へ姿を消す乙女'''」が'''月'''であるならば、ムルア・サテネも「月」である。バナナの姿は「三日月」を暗喩するともいえる。 すなわち、月の女神であるムルア・サテネは「'''イノシシ・ココヤシ・蛇を介し'''」更に'''アメタと結合する'''こと、で人の世界にハイヌウェレとして生まれ出る。しかし、太陽神トゥワレとの結合で、「死んだ月の女神」と「イモ類」に変化してしまう。イモ類は「母なる女神の死体」であり、母女神の死体を食べる人々にも死の運命が訪れる。ムルア・サテネは人々に己の死体を食べさせ、利用させる代わりに、人々の命を奪うのである。しかし、それは「太陽神トゥワレ」の命を奪うことにもつながるはずである。人々は「トゥワレの化身」でもあるからである。 イノシシ(豚)の役割について考察する。イノシシはアメタに狩られ、その死によってココヤシを経由しハイヌウェレへと化生した。「'''イノシシの死'''」がココヤシという新たな植物の発生を可能にしている。ラビエの場合には、'''イノシシの死'''はラビエを月(とイモ類)に化生させることを可能にしている。イノシシはその死と引き換えに自らあるいは他者を食用植物(と月)に化生せしめる'''媒介'''の能力があるとされている。イノシシもアメタと同じくシャーマン的な存在とされている。ハイヌウェレでは死んだハイヌウェレを更にイモに化生させる役割をアメタは負っている。そもそもハイヌウェレはアメタの一部(血)を犠牲にして生まれた者なのだから、アメタの一部も死んでその代わりに娘の死(月への変化)とイモ類を得た、といえる。すなわち、'''イノシシはまたアメタである'''、といえる。アメタは「森の動物の王」であり、だからこそ狩りの獣を人々にもたらすことができるのではないだろうか。また、太陽神トゥワレがラビエを殺して、その死体からイモ類が人類にもたらされたのであれば、その姿はアメタがハイヌウェレの死体から人類にイモ類をもたらした姿と重なる。そうすると'''アメタはトゥワレでもある'''ことになり、単にハイヌウェレを殺すだけの人々よりも、特別に「'''トゥワレに近い存在'''」といえる。」として生贄に用いるのであれば、そもそも生贄に「男女の差」は必要なかったのではないだろうか、と思う。特に植物は一見して、雄とも雌とも見分けがつかないものであるし、擬人化するにしても、状況に応じて、男性とみなすことも、女性とみなすこともできそうである。ヴェマーレ族は「バナナの女神であるムルア・サテネ」の子孫なのだから、男性も女性も「バナナの化身」である。
== その他の神話 ==