一方、松本藩により享保年間に編纂された地誌、『信府統記』(第十七)に記される伝承の概略は次のようなものである<ref>鈴木重武編『信府統記』(吟天社、1884年)</ref><ref>[http://digikura.pref.nagano.lg.jp/] 信州デジくら</ref>。
:その昔、中房山という所に魏石鬼という名の鬼賊が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。延暦24年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った。その昔、中房山という所に魏石鬼という名の'''鬼賊'''が居た。八面大王を称し、神社仏閣を破壊し民家を焼き人々を悩ましていた。延暦24年(805年)、討伐を命ぜられた田村将軍は安曇郡矢原庄に下り、泉小太郎ゆかりの川合に軍勢を揃え、翌大同元年(806年)に賊をうち破った。
:穂高神社の縁起では、光仁天皇のころ義死鬼という東夷が暴威を振るい、のち桓武天皇の命により田村利仁<ref name="注">藤原利仁と同化した、中世以降における坂上田村麻呂(田村将軍)の伝説上の名前の一つ。</ref>がこれを討ったという。
また、八面大王に関連した地名や遺跡に関する以下のような記述もある。
*中房山の北、[[有明山 中房山の北、有明山 (安曇野市・松川村)|有明山]]の麓の宮城には「魏石鬼ヶ窟」がある。
*討伐軍が山に分け入る際に馬を繋いだのが今の「駒沢」で、討ち取った夷賊らの耳を埋めたのが「耳塚」、賊に加わっていた野狐が討ち取られた場所が「狐島」であるという。
*八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の[[筑摩神社 (松本市)|筑摩八幡宮]](つかまはちまんぐう)とされる。八面大王の社と称する祠もあるという。一説には、魏石鬼の首を埋めたのが「塚魔」であり、その上に権現を勧請したのが今の筑摩八幡宮(つかまはちまんぐう)とされる。
*魏石鬼の剣は戸放権現に納められたというが、この社の所在は不明である。剣の折れ端は栗尾山満願寺にあり、石のような素材で鎬(しのぎ)があり、両刃の剣に見える。
この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように歴史上の人物である[[坂上田村麻呂]]と[[藤原利仁]]の混同この件に関する『信府統記』の記述はすこぶる表面的であり、上記のように歴史上の人物である坂上田村麻呂と藤原利仁の混同<ref>[[坂上田村麻呂伝説]]</ref><ref>[[坂上田村麻呂]]</ref>をはじめとする[[田村語り]]の影響など、おとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。決定的なことは、坂上田村麻呂は、延暦20年(801年)の遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる。をはじめとする田村語りの影響など、おとぎ話的な側面を多く含むことは否めない。決定的なことは、坂上田村麻呂は、延暦20年(801年)の遠征以降、征夷の史実はないという点である。加えて、文中のコメントは伝聞調で「云々(うんぬん)」、「とかや」が散見しているため、史実としての信頼性を疑わせる。
== 坂上田村麻呂伝説と『仁科濫觴記』 ==