その後は中臣氏とともに伊勢奉幣使となる例となったが、次第に中臣氏の勢力に押され、奉幣使補任は減少した<ref>忌部氏(国史)</ref>。そのため天平7年(735年)<ref group="原">『続日本紀』天平7年(735年)7月庚辰(27日)条。</ref>に忌部宿禰虫名・鳥麻呂らは忌部氏を奉幣使に任じるよう訴え、訴えは認められた<ref>忌部氏(古代氏族), 2010年</ref>。しかし天平勝宝9歳(757年)6月<ref group="原">『続日本紀』天平宝字元年(757年)6月乙未(19日)条。</ref>には中臣氏だけが任じられ他姓を認めないこととなった<ref>忌部氏(古代氏族), 2010年</ref><ref group="注">ただし、天平宝字年間(757年-765年)には忌部宿禰人成・呰麻呂らが奉幣使に任じられており、その後も忌部氏側から訴えがあったものと見られている</ref><ref>忌部氏(国史)</ref>, <ref>忌部氏(古代氏族), 2010年)</ref>。その後は中臣氏(のち大中臣氏)の他氏排斥が著しくなり、忌部氏固有の職掌にさえ就けない例が生じることとなった<ref>忌部氏(国史)</ref>。
[[延暦]]22年([[803年]])延暦22年(803年)<ref group="原">『日本逸史』延暦22年(803年)3月乙丑(14日)条([{{NDLDC|:991096/56}} 『国史大系 第6巻 日本逸史・扶桑略記』]<国立国会図書館デジタルコレクション>56コマ参照)。</ref>には忌部宿禰浜成の申請によって「'''斎部'''」と名を改めた{{Sfn|<ref>忌部氏(古代氏族)|, 2010年}}。中臣氏との争いは、[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])</ref>。中臣氏との争いは、大同元年(806年)<ref group="原">『日本後紀』大同元年(806年)8月庚午(10日)条。</ref>には「両氏相訴」という事態にまで発展し、同年の勅命により祈祷は両氏、常祀以外の奉幣使も両氏を公平に用いることと定められた{{Sfn|<ref>忌部氏(古代氏族)|, 2010年}}。そして大同2年([[807年]])には</ref>。そして大同2年(807年)には'''[[斎部広成]]'''によって'''『[[古語拾遺]]』『古語拾遺』'''が著され、斎部氏の伝統と中臣氏批判がなされた{{Sfn|<ref>忌部氏(古代氏族)|, 2010年}}</ref>。
しかし以後も斎部氏は中臣氏の勢力に押され、歴史の表舞台には見えなくなる。なおしかし以後も斎部氏は中臣氏の勢力に押され、歴史の表舞台には見えなくなる。なお弘仁6年(815年)の『新撰姓氏録』では、神別(天神)に「斎部宿禰」として、[[弘仁]]6年([[815年]])の『[[新撰姓氏録]]』では、[[神別]]([[天津神・国津神高御産巣日神|天神高皇産霊尊]])に「斎部宿禰」として、高皇産霊尊の子の天太玉命の後裔である旨が記載されている。の子の天太玉命の後裔である旨が記載されている。
== 忌部 ==