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40 バイト除去 、 2025年1月28日 (火)
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右、大明神天降り給ふの刻、御随身せしむる所の真澄鏡、八栄鈴、並に唐鞍、轡等之在り、御鏡は数百年の間陰曇り無く、鈴は其の音替るなし。毎年二ヶ度、大祝彼の鏡に向かひ、件の鈴を振り、天下泰平の祈請を致す。鞍轡等は其の色損せず。<small>(原漢文)</small><ref name="SuwaShishi682" /><ref name="shimosuwa">伊藤富雄「第四編 上代の下諏訪」『下諏訪町誌 上巻』下諏訪町誌編纂委員会編、甲陽書房、1963年、564-565、570頁。</ref></blockquote>
この話は『諏方大明神画詞』「祭 第三夏 下」のうち、6月晦日に摂社'''[[藤島神社 (諏訪地方)#藤島社(諏訪市)|藤島社]]'''([[諏訪市]]中洲神宮寺)で行われるお田植神事の項にも出てくる。ここでは両者が手にしていた「藤鎰」と「鉄鎰」が「藤の枝」と「鉄輪」となっており、『信重解状』にとって肝心の守屋山への降臨が語られない(諏訪市中洲神宮寺)で行われるお田植神事の項にも出てくる。ここでは両者が手にしていた「藤鎰」と「鉄鎰」が「'''藤の枝'''」と「'''鉄輪'''」となっており、『信重解状』にとって肝心の守屋山への降臨が語られない<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、124頁。</ref>。
{{quotation|{{Ruby|抑|そもそも}}この藤島の明神と申すは、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊、神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争ひ、明神は藤の枝をとりて是を伏し給ふ。ついに邪輪を降ろして正法を興す。明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば、即ち根をさして枝葉をさかへ、花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す。藤島の明神と号するこのゆえなり。<blockquote>抑(そもそも)この藤島の明神と申すは、尊神垂迹の昔、洩矢の悪賊、神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持して争ひ、明神は藤の枝をとりて是を伏し給ふ。ついに邪輪を降ろして正法を興す。明神誓いを発して藤枝をなげ給ひしかば、即ち根をさして枝葉をさかへ、花蘂あざやかにして戦場のしるしを万代に残す。藤島の明神と号するこのゆえなり。<ref name="Hanaya" /><ref>諏訪教育会編「諏方大明神画詞]」『諏訪史料叢書 巻2』1926年、39頁。</ref>}}</blockquote>
『画詞』の作者は、『旧事本紀』に出てくるタケミナカタを巻頭に出し、地元伝承を藤島社の由来にかけて述べている。諏訪明神と洩矢神の抗争の伝承を巻頭に出さず、小さく扱ったものとみられる<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、683-684頁。</ref>。
『解状』や『画詞』のほかには、『神氏系図(前田氏本)』<ref>[[宮地直一]]「宮地直一「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1076393/106 附録 一 神氏系図]」『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、1頁。</ref>『神家系図(千野家本)』<ref>諏訪教育会 編「[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/9 神家系図]」『諏訪史料叢書 巻28』1938年、1-7頁。</ref>などにも、諏訪明神と初代大祝が「守屋」を追い落とし守屋山麓に社壇を構えたという同系統の伝承が語られているなどにも、諏訪明神と初代大祝が「'''守屋'''」を追い落とし守屋山麓に社壇を構えたという同系統の伝承が語られている<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、690頁。</ref>。
{{quotation|信州諏方郡に神幸するは、人皇卅二代用明天皇の御宇なり。時に八歳の童子あり。<small>(後有員と字す)</small>明神に随遂せしむ。守屋大神と諍ひ奉りて、守屋山に至りて御合戦あり。童子神兵を率ゐて守屋を追落す。則ち彼の山麓に社壇を構へて、<small>(中略)<ref>金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」『諏訪信仰の発生と展開』 古部族研究会編、人間社〈日本原初考 3〉、2018年、73頁。</ref></small>}}

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