『石切劔箭神社』の社史によれば、'''天照大神'''から大和建国の'''神勅'''を拝し『十種の瑞宝』を授かった'''饒速日尊'''が船団を組み、自らも『布都御魂劔』と日の御子の証である『[[天羽々矢]]』を携え天磐船に乗り込み、物部八十の大船団を率いて高天原を出航した。途中、豊前国の宇佐に寄港すると船団を二つに分け、息子の天香具山命に『布都御魂劔』を授け船団の一方を預けた。宇佐から瀬戸内海を渡ると'''饒速日尊'''は河内・大和に、一方の天香具山命は紀伊に向かった。天磐船が鳥見の里を見渡す'''哮ヶ峯'''(たけるがみね『生駒山』)に着くと、'''饒速日尊'''は辺りを見渡し「'''虚空(そら)にみつ日本(やまと)国)'''」【訳「 空から見た日本の国」または「空に光り輝く日本の国」】と賛じた。これが日本の国号の始まりとなった。当時の河内と大和の一帯は'''鳥見の里'''と呼ばれ、穏やかな自然と海や山の幸に恵まれた豊な土地であった。この地方を治めていた豪族、鳥見一族は、稲作や製鉄の技術がないものの、狩や漁がうまく、生活用具や住居づくりに優れ、長身の恵まれた体格は戦闘に秀で「長髄の者」と恐れられていた。その頃の鳥見一族の長、[[長髄彦]]は'''饒速日尊'''の徳の高さに打たれ、尊のもたらした稲作や織物、製鉄の道具・武具に文化の差をみると、争う事の無益さを悟り、一族こぞって'''饒速日尊'''に従った。この時二人の間を取り持ったのが長髄彦の妹、[[ミカシキヤヒメ|登美夜毘売(三炊屋媛)]]で後に尊との間に[[ウマシマジ|'''宇摩志麻遅命''']](うましまぢのみこと)をもうけた。
こうして鳥見の里を治めるようになった'''饒速日尊'''は、水が豊かで稲作に適したこの土地に水田を拓き、大きな実りをもらすようになった。これが近畿地方の稲作文化の初めとなった。一方、鳥見の里が繁栄をきわめていた頃、磐余彦(後の神武天皇)が日向の高千穂から東へ進行を続け(神武東征)、やがて河内に上陸し孔舎衙坂で長髄彦と対峙した。戦いに敗れた磐余彦は紀伊方面に退却、紀伊半島を迂回し再び長髄彦と対峙する。この頃、既に'''饒速日尊'''は亡くなり、代わって鳥見の長となっていたのは宇摩志麻遅命だった。宇摩志麻遅命は「天羽々矢」とは亡くなり、代わって鳥見の長となっていたのは宇摩志麻遅命だった。宇摩志麻遅命は「[[天羽々矢]]」と[[箙|歩靭]](かちゆき)を、日の御子である証として磐余彦に差し出した。すると磐余彦からも同じものが示され天孫であることが明らかになった。宇摩志麻遅命は長髄彦に磐余彦への帰順をさとし自らも一族を率いて磐余彦に忠誠を誓い、広大な稲作地や所領のすべてと天照大神から授かった『十種の瑞宝』を磐余彦に捧げた。こうして大和の統一が成し遂げられ磐余彦は始馭天下之天皇(神武天皇)に即位した。
== 系譜 ==