== 概要 ==
この老松宮はもと、上岩田、井上、下岩田の氏神であり、この神の鎮座地を昔は'''神磐戸'''と称していた。上岩田の地名は、神磐戸から神磐田、上岩田と変ったのであろう。大昔、神功皇后が秋月の'''羽白熊鷲'''を征伐せられ、次で筑後国、山門県の(はじろくまわし)を征伐せられ、次で筑後国、山門県の'''田油津姫'''を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦の折、武内宿祢をして、御剣を祀らしめられた。その不動石が境内にあったが、現在は不明。又境内に大岩窟があったが、正保年間(一六四四)これを破壊し、その巨岩を稲吉堰の築造に利用したので、今はその跡があるだけである。(たぶらつひめ)を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦の折、武内宿祢をして、御剣を祀らしめられた。その不動石が境内にあったが、現在は不明。又境内に大岩窟があったが、正保年間(一六四四)これを破壊し、その巨岩を稲吉堰の築造に利用したので、今はその跡があるだけである。
昔の社殿は後三條天皇の延久二年(一〇七〇)上岩田の庄領家菅原氏の造立で、その後高橋城主の高橋氏、肥前の筑紫氏等によって再建され、御原郡の総社と仰がれた由緒ある神社で、宝物等数多くあった。昔は神田も数多くあったが、今は地名(火王田、彼岸田、神楽田・・・等)として残っている。