人でも神でも、「生き返ること」が可能であったとして、果たして「死ぬ前のもの」と、「生き返ったもの」を神話的に「同じもの」として扱って良いのだろうか、と管理人は考える。例えば[[盤古]]は死んで万物に変化した、と言われる。変化した万物の一つ一つは[[盤古]]が変化したもの、といえるかもしれないが、元の[[盤古]]と「同じもの」であるとは言えないと思う。よって、神話であっても、死ぬ前のものと、生き返ったものは「'''別のもの'''」と考えるべき、と管理人は思う。天若日子と[[阿遅鉏高日子根神]]の存在には「死と再生」という連続性はあるかもしれないが、それぞれは「'''別のもの'''」なのである。もし[[阿遅鉏高日子根神]]が天若日子の変化したものであれば、管理人は、それは中国で言うところの「鬼」であるとすべきと思う。
ただし、管理人は、天若日子が死んで変化したものが[[阿遅鉏高日子根神]]だとは考えない。管理人は天若日子と大国主命を「同じ神」と考えているので、[[阿遅鉏高日子根神]]は天若日子の「息子」というべきと考えているのだ。よって、天若日子は「'''死んで[[阿遅鉏高日子根神]]とは異なる別のものになった'''」と解すべきと考える。ただし、それが大国主命となると話は別で、大国主命は「'''死んだ後、[[須佐之男命]]の化身として蘇る。'''」のだ。[[須佐之男命]]は[[阿遅鉏高日子根神]]と「ほぼ同じ神」である。だから、'''大国主命は「死んで[[阿遅鉏高日子根神]]として復活した」といえる'''かもしれないと考える。でも、それを天若日子の神話としてはいけないのだと思う。大国主命と天若日子は、同じ神でも、2つに分けたことに意義があると思うのだ。天若日子は死んで[[須佐之男命]]になったりしないになったりせず'''「地上の人々のため」の神天に戻って葬られる'''でなければならないのではないだろうか。大国主命は。大国主命は'''死んで祟り神の[[須佐之男命]]になることに意義がある神'''なのだと考える。なのだろう。
=== 二人の女神の対立 ===