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一方『丹生大明神告門』<ref group="注" name="丹生大明神告門1">『丹生大明神告門』は丹生都比売神社に伝わる祝詞。「告門」は「のりと」と読む。『延喜式』収録の祝詞ではなく、平安時代以降伝来されたものになる。</ref>では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(現・九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したと伝える<ref name="神々"/>。
 
『延喜式』神名帳(927年成立)の記載では祭神は1座。その後に上記2座になり、平安時代末頃からは4座になったと見られている<ref name="地名"/>。仁平元年(1151年)の文書に「第三神宮」の記載があるほか<ref name="地名"/>、正応6年(1293年)には天野四所明神の「三大神号'''蟻通神'''」の神託が見え、第三殿に「蟻通神」が祀られていたことがわかる<ref name="地名"/>。祭神の増加に関して、『高野春秋』によれば承元2年(1208年)10月に北条政子の援助で行勝上人と天野祝により、気比神宮の大食比売大神<ref group="注" name="氣比神宮"/>、厳島神社の市杵島比売大神が勧請されたという<ref name="地名"/>。年代は史料間で食い違うものの、現在の祭神はこれに基づいている。
また『日本書紀』神功皇后紀<ref group="原">『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条(神道・神社史料集成参照)。</ref>には、紀伊国の小竹宮<ref group="注">「小竹宮」は御坊市の小竹八幡神社と伝えられる(http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=6001, 小竹八幡神社, 和歌山県神社庁, 2013-10-22)。</ref>において'''天野祝'''と'''小竹祝'''を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話がある。この「天野祝」(丹生祝)は丹生都比売神社の神職と見られる<ref name="神々"/>。

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