* 『七類修稿』
<blockquote>蠻地以人頭祭神 諸葛之征孟獲 命以面包肉為人頭以祭 謂之蠻頭 今訛而為饅頭也 古人寒食採桐楊葉染飯青色以祭 資陽氣也 今變而為青白團子 乃此義耳。}}|『七類修稿』卷四十三の事物類乃此義耳。(『七類修稿』卷四十三の事物類)<ref>七修類稿/卷43, 郎瑛</ref></blockquote>
* 『因話録<ref>因話錄, 趙璘</ref>』<ref>http://www.yuiwo.com/viewthread.php?action=printable&tid=995, 方王媽媽堅果饅頭製作, 2010年8月4日}}</ref><br />
『事物紀原』などの説が後の明代に書かれた説話『三国志演義』に収録され広く知られるようになったため、その内容を解説されることが多い。『七類修稿』では中華思想で南方の異民族を南蛮と呼ぶので、蛮人の頭を意味する「蛮頭」(蠻頭, 蛮头, mán tóu)が語源であるとする。『因話録』では「神をだまし、本物の頭だと信じ込ませる」ことから「瞞頭」(瞞頭, 瞒头, mán tóu、発音は同じマントウ)と最初呼ばれたという。その後、饅頭を川に投げ入れるのがもったいないので祭壇に祭った後で食べるようになり、当初は頭の形を模して大きかった饅頭が段々小さくなっていったと言われている。
==== 人柱(ひとばしら) ====
日本では土木工事現場で犠牲となった労働者をしばしば'''人柱'''と言うが、これは元々、重機もなく自然を切り開くことが困難だった時代、橋や堤防の普請、城の築城などに際し、施工から完成後の永きに渡って崩落や決壊がないことを祈願し、生贄として人間を生き埋めにしたことから来ている。『日本書紀』に登場する茨田堤(大阪府)などが有名。と言うが、これは元々、重機もなく自然を切り開くことが困難だった時代、橋や堤防の普請、城の築城などに際し、施工から完成後の永きに渡って崩落や決壊がないことを祈願し、生贄として人間を生き埋めにしたことから来ている。『日本書紀』に登場する[[茨田衫子|茨田堤]](大阪府)などが有名。
土木工事に関する人柱とは、まず工事の際に災いが起きないように'''災害神と技術神'''に食事をさせて慰撫するためのもの、完成後の建築物(橋や堤)に災いが起きないように災害神を慰撫するためのものと管理人は考える。災害神(疫神)と技術神は表裏一体の存在で、工事のための'''技術神の力を強め'''、災害神(疫神)の荒ぶる力を抑制することが「人柱」という名の人身御供の目的と考える。日本神話の場合、災害神(疫神)は'''[[須佐之男命]]'''であり、技術神は'''[[五十猛神]]'''という木を植え加工する神である。この二神は父子の関係とされている。 ただし、[[茨田衫子|茨田堤]]の伝承に関しては、『日本書紀』によると人身御供に捧げられた者は、災害神(疫神)である[[須佐之男命]]のようなふるまいをした、とあるので、少なくとも[[茨田衫子|茨田堤]]の祭祀は「'''災害神(疫神)に見立てた者を殺して冥界に追放することで、厄払いをする。'''」という意味が強かったように思われる。 '''人柱'''は神を鎮める供物ではなく、人身御供とは異なるという見方もある。<s>神話学者の 高木敏雄は人身御供と人柱の混同を指摘している<ref>高木敏雄『日本神話伝説の研究』530頁「時々人柱として河の神に人身御供に捧げられる」</ref>。高木によれば、人柱は神に捧げるものではないため、神に捧げるという意味で差し出される生贄が、人身御供ということになる。<ref group="私注">人柱が神に捧げるものでないのなら何だというのだろうか。単に何かの作業の成功を祈願する(何に対しての祈願なのかがはっきりしないが)ためのものが人柱だというのであれば、朝ご飯を作る作業すら人柱が必要ということになってしまうのではないだろうか。</ref></s>
なお、南方熊楠の「南方閑話」<ref>南方熊楠「南方閑話」坂本書店出版部1926年3月20日発行61頁―96頁</ref>では神に捧げられる生贄が人柱として紹介されている。
==== 儺追(追儺)との関係 ====
江戸時代中期の国学者天野信景は著書『塩尻』にこう書いている。<blockquote>…和州長谷修正の終に鬼を追う事あり頃年我熱田の神宮寺にても正月此事をはじめ侍る是は路人を執促するに非ず夫路行の旅人を捉え侍るは湖南九江の淫祠に似たり追儺は人を以て神を祭るにあらざれども世俗人は人を牲(ニエ)とする様にかたる…。…和州長谷修正の終に鬼を追う事あり頃年我熱田の神宮寺にても正月此事をはじめ侍る是は路人を執促するに非ず夫路行の'''旅人を捉え侍る'''は湖南九江の淫祠に似たり追儺は人を以て神を祭るにあらざれども世俗人は'''人を牲(ニエ)とする'''様にかたる…。</blockquote>これにより、当時の一般の人々が追儺に人身御供を用いていたと勘違いしていたことがうかがえる。これにより、当時の一般の人々が追儺に人身御供を用いていたと勘違いしていたことがうかがえる<ref group="私注">これは追儺の儀式とは別に、広く「疫神払い」とは「'''疫神に見立てた人を殺して冥界に送る'''」という祭りであることが一般化していたために生じたのではないだろうか。</ref>。
==== 白羽の矢 ====
静岡県磐田市、淡海國玉神社の「見付天神裸祭」は台風大雨洪水となっても決行される。これは前述の「白羽の矢」の由来にもなった人身御供の儀式が、決まった日時に遅延なく行わなければならなかったことの名残であると伝わる<ref>小川有言「遠江の伝説」安川書店 昭和17年1942年11月1日発行166頁―167頁</ref>。
その昔、遠江の見附村では毎年、どこからともなく放たれた白羽の矢が家屋に刺さると、その家は所定の年齢にある家族(娘)を人身御供として神に差し出さねばならなかった。ある時、神様がそんな恐ろしい要求をする筈がないと考えた旅の僧侶によって、神の正体が怪物だと発覚。僧侶はその怪物が怖れているのが信濃の山犬、悉平太郎(しっぺいたろう)であると知り、信濃国光前寺から悉平太郎を連れて来て、怪物を退治した。
人身御供の風習を止めた山犬の悉平太郎は、故郷である信濃側駒ヶ根市では「早太郎」と呼ばれている。人身御供の風習を止めた山犬の悉平太郎は、故郷である信濃側駒ヶ根市では「[[早太郎]]」と呼ばれている。 矢奈比売神社に伝わる伝承は、干ばつなどを起こす猿神が、若い娘の人身御供を求めたものを霊犬・[[早太郎]]が倒した、というものである。現在、矢奈比売神社には「矢奈比売大神」という女神が祀られている。この神社における「人身御供」とは、災害神(疫神)を慰撫するための食料や妻としての意味があると考える。彼女を選び出すのは「白羽の矢」である。この「矢」とは何者なのだろうか。
==== 三股淵 ====
三股淵の伝承は、田子の浦港(静岡県富士市)の奥、沼川と和田川(生贄川)が合流する場所を「三股淵」といい、ここに竜蛇が住まい、少女を生けにえとしてささげていた、というものである。複数(6人)の旅の巫女と「あじ」という娘が生贄に選ばれる話で、悲劇的な結末になるパターンや、生贄を無事に免れるパターンがあるようである。6人の娘は六王子神社に祭られ、あじは阿字神社に祭られた、とのことである<ref>[http://iiduna.blog49.fc2.com/blog-entry-521.html 三股淵の生けにえ伝説]</ref><ref group="私注">管理人の私見では、「あじ」とは伊豆能売命(雷女女神)が民間伝承化したものではないか、と思う。伊豆能売命は雷の女神であり、水の女神でもあると思うので、本来は生贄を捧げられる側であった龍蛇女神の伊豆能売命が「生贄となる」ことになってしまったのが、三股淵の伝承ではないか、と思う。伊豆能売命は、本来雷神信仰の強い賀茂氏の神ではないかと考える。尾張国伊多波刀神社に祀られている。「旅人を生贄に捧げる」という点は尾張國府宮の祭祀と共通している。三河・遠江・駿河は女性を生贄に捧げる話が多いのではないだろうか、と感じる。</ref>。
==== 子だが橋(小田橋) ====
愛知県豊川市小坂井町字宮脇にある菟足神社(うたりじんじゃ)にまつわる話。祭神は'''菟上足尼命'''(うなかみすくねのみこと)。[[葛城襲津彦|葛城襲津彦命]](かつらぎそつひこのみこと)四世の玄孫にあたり、雄略天皇の治世に'''穂の国'''(現在の東三河)'''国造'''に任ぜられたという。4月に行われる「風(かざ)まつり」は、『宇治拾遺物語』や『今昔物語』に記載される古い祭であり、「菟上足尼命が着任するときに海上が大きく荒れたにも関わらず無事に到着した」という伝承が元にななっているということだ<ref>[https://www.shintoken.jp/kenkyu/2014/08/utari/ 菟足神社と兎神輿(愛知県豊川市)]、神兎研究会(最終閲覧日:24-12-11)</ref>。
この祭りは人身御供を伴っていたとのことで、以下のような伝承があるとのこと。
<blockquote>菟足神社には、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする習慣があったと伝えられている。ある男が生け贄を狩りに行くと不運にも里帰りにきた自分の娘が「小田橋」を渡りに来て、その男は「自分の子だが生け贄にした」とのこと。娘を神社の「生贄」としてさしだし、それ以後、その橋を「(自分の)子だが橋」と呼ぶようになったとのことである。<br>その後、「風祭」では、「人身御供」はなくなっても、イノシシを生贄として差し出したり、最近でも、スズメを生贄として差し出しているとのことだ<ref>[https://blog.goo.ne.jp/amigo-yumedream/e/43f31a6a78dd36e92705408e3b5e1710 生贄伝説があった???「隠れウサギ」のいる…菟足神社を参拝する…]、新・日記どす(DOS)(最終閲覧日:24-12-12)</ref><ref>[http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto2/utari.htm 菟足神社](最終閲覧日:24-12-12)</ref>。</blockquote>
また、神社には徐福伝説もあるそうだ。
おそらく、人身御供の起源として、祭神が荒れた海を鎮めるために娘を人身御供にした、というような'''弟橘媛'''のような縁起譚があったのではないだろうか。風神系の疫神を鎮めるための祭祀と思われる。殺された娘は「[[吊された女神]]」といえる。
==== アイヌの人身御供伝説 ====
==== 男子の人身御供 ====
多くの人身御供伝説では、生贄の対象が女性である場合が目立つ。しかし、中山や高木は生贄に男子の場合も紹介している。 <ref>中山太郎「日本巫女史」251頁、高木敏雄「日本神話伝説の研究」533頁-534頁</ref>
* [[キジも鳴かずば]]:主に成人男子を人身御供に捧げている。長野市信州新町他。
=== 何に生贄を捧げるか ===
==== 水田と人身御供 ====
松村武雄は「日本神話の研究」で、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと述べている。また、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している。松村武雄は「日本神話の研究」で、穀物の豊かな収穫を確保するための呪術として犠牲人を殺す民俗が行われていたと述べている。また、水の神、田の神に実際に女性を生贄としてささげた習俗があると記している<ref>松村武雄「日本神話の研究 第三巻」培風館 昭和30年1955年11月10日発行126頁197頁207頁</ref>。松村は同書で中島悦次の「穀物神と祭祀と風習」を紹介し、その中で柳田國男の「郷土誌論」を参考にした「オナリ女が田植えの日に死んだというのは、オナリ女の死ぬことが儀式の完成のために必要であったことを意味する」との文章を引用している<ref group="私注">田の神に女性を捧げる祭祀と、猿神に女性を捧げる祭祀は、猿神=猿田彦=川の神(水神)=田の神、とすると連続性がある祭祀と言えると思う。そして、収穫の豊穣のために犠牲となる人間が必要だった、とされるのであれば、趣旨からいって本来的には生贄は女性とは限らなかったのではないか。中国神話には[[后稷]]という男性形の死したる穀物神がおり、男性も生贄とされていたであろうことが示唆されるように思う。生贄が女性に限定されるようになったのには、何かその原因となった事情があるのではないか、と考える。日吉山王のように猿神=太陽神(あるいはその使い)ともみなすのであれば、太陽神でもあり水神でもある猿神=猿田彦とは、中国神話における[[炎帝神農]]といえる、とも思う。鼻が高く赤い顔の猿田彦はその赤さが「太陽神」と通じるものでもあるのではないだろうか。</ref>。
==== 神隠しと人身御供 ====
人身御供は、神が人を食うために行われるとも考えられているが、神隠しと神が人を食う事との関連を柳田國男は自身の著書「山の人生」にて書いている。柳田によれば、日本では狼は山神として考えられており、インドでは狼が小児を食うという実例が毎年あり、日本には狼が子供を取ったという話が多く伝わっているという。これが山にて小児が失踪する神隠しの一つの所以であるとも考えられる<ref>柳田國男「山の人生」実業之日本社 昭和23年1948年5月15日発行148頁―149頁 郷土研究社版 昭和11年1936年1月28日発行「山の人生」が原本</ref>。 === 疫神と人身御供 ===疫神に対する人身御供には大きく2つの意味があるように思う。* 疫神を慰撫するもの。** 餌的なもの** 配偶者的なもの。** 疫神(祟り神)の原因となった者に見立てた者を殺すこと。* 疫神に見立てた者を殺して、疫神封じをするもの。これらが複合的になって、区別が曖昧なものも多いように思う。
=== 人身御供の分析 ===