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660 バイト追加 、 2024年12月5日 (木)
巻第七 四十 「上野國勢多郡鎮守赤城大明神事」 抑赤城大明神申より抜粋
<blockquote>履中天皇の時代、ある公家が無実の罪で、上野國勢多郡深栖という山里に流されてしまった。彼はそこで妻と暮らし、若君一人、姫君三人を儲けた。若君は成人した後、都に上がり仕官を許された。三人の姫たちは深栖で両親と共に暮らしていたが、母君が38歳の春に亡くなってしまった。姫たちは、それぞれ淵名姫(十一歳)、赤城姫(九歳)、伊香保姫(七歳)だった。父は、その年の秋に信濃より後妻を迎えた。<br>5年後、公家は都に呼び戻されて国司の任につくこととなった。妻と娘を上野に残し、公家は都に戻った。留守中のある晩、継母は弟である命知らずの荒くれ者、更科次郎兼光を呼び、「前妻の姫君たちは、あなたを馬鹿にしているので懲らしめねば。」と、弟をそそのかした。<br>更科次郎兼光は、赤城山で7日間の巻狩をするとふれを出し、多くの人を集めた。そして、公家に使えていた大室太郎・淵名次郎を捕え、切り殺してしまった。<br>その晩、更科の軍勢は淵名宿に押し寄せ、女性達と淵名姫を捕え、利根川に沈め、殺してしまった。時に姫は十六歳だった。<br>その後、軍勢は大室宿に押し寄せ、三方に火を懸け、南に開けられた一方より逃れ来る人々を、次々に切り殺し、打ち殺した。しかし、大室太郎の妻は、姫君を肩にかつぎ、後ろの赤城山に逃げた。が、大室妻と赤城姫は道に迷ってしまった。二人は山中をさまよい、「いっそ死んでしまいたい。」と嘆いた。5~6日が過ぎ大室妻は亡くなってしまった。赤城姫が死骸にすがって泣いていると、赤城の沼の龍神が美しい女性の姿で現れた。現れました。女神は「私と一緒に行きましょう。」と言い、赤城姫を連れていった。赤城姫は赤城の沼の龍神の跡を継ぎ、赤城大明神となった。大室太郎夫婦も、従神となった。<br>また更科の軍勢は、群馬郡有馬の郷、伊香保大夫の宿に押し寄せ、伊香保姫を殺そうとした。伊香保大夫は、子供9人・婿3人を大将とし、利根・吾妻両河の合流箇所から、見屋椙の渡りに至るまで、13カ所の城郭を構えて待ち受けていたため、軍勢は河から西へは近寄れず、伊香保姫は無事だった。<br>その後、継母と更科次郎は、なに食わぬ顔で暮らしていた。公家が国司として下向することとなった。駿河国で国の詳しい様子が伝えられ、国司はとても驚いた。国司は「三人の姫が亡くなったのならば、もう、どうしようもないが、姫等の死んだ場所へ向かおう」と決め、泣きながら上野へ下った。<br>淵名姫が沈められたという倍屋淵に、国司は旅装束のまま向かい河岸に下り立ち、「淵名姫は居らぬか、父だよ、昔の姿を見せておくれ。」と叫んだ。すると、波の中から姫君が現れ、「継母から恨みを受け、淵の底に沈められてしまいました。しかし、神仏のお導きによって、自在に空を飛べるようになり、神となって人々を導くことになりました。」と言った。姫君が父上に別れを告げ、飛び去ると、国司は「わが子よ、私も連れていってくれ」と倍屋淵に飛び込んでしまった。<br>群馬郡の地頭、伊香保大夫は足早で知れた羊大夫を呼び、二人の姫君と大将の自害の事を都に知らせた。この羊大夫とは、午の時に上野国の多胡の荘を出て都に上がり、羊の時には用向き終え、申の時には国元に帰ってきたため、羊大夫と云われていた。亡くなった国司の嫡子は、左少将殿と呼ばれ、中納言の職にあったため高野辺中納言とも呼ばれた。中納言は二人の姉の死、父親の自害の知らせに驚き、その夜のうちに都を出発し、東国へ下った。急ぎの出立だったため、帝への挨拶もないままだった。帝は人づてに此の事を聞き、中納言の慌ただしい出発を、不憫に思われた。急な出発のため、何もしてやれなかったと、都で一番の早足の者を呼び、東海・東山道諸国の軍兵は、中納言が、東国へ下る道中を護衛するようにと命じた。そのため、各地の宿場で軍勢が中納言に合流し、都を出た時は主従七騎だけだったのが、武蔵の国府に着いた時には、五万騎余りにもなった。また中納言は新たな上野の国司に任命された。<br>新国司の下行を知った、更科次郎と継母は、故郷の信濃へ逃げようとしたが、伊香保大夫は碓氷と無二の峯に関を設け、周りを固め守っていたので、逃げ出すことができなかった。国司中納言は、深栖の御所に入り、更科次郎父子三人を捕え、庭先に引きたて子細を問いただした。その後、子供二人は、赤城山黒檜岳東の大瀧の上、横枕、藤井の谷で切り殺し、首を古木の枝に懸けた。更科次郎は倍屋淵に連れて行き、船より下ろしては水の中へ吊り挙げ下げを七十五度も繰り返して拷問した。更科次郎は苦しさのあまり大声を挙げ、首を落とせと叫んだ。国司はこれを聞き入れ、次郎の首に石を付けて淵底に沈めた。継母は腹違いの妹と共に信濃国に追放した。継母は仕方なく更科の父の宿に行き、面倒を見てもらって暮らした。<br>信濃の国の国司は「このような極悪人を養う親は許せない。」と継母の親夫婦を殺してしまった。継母とその娘は何処ともなく消えてしまっていたが、その後、甥の更科十郎家秀を頼って現れた。甥は「一門が破滅させられたのはお前のせいだ。」と言って、母娘二人を更科の山奥の宇津尾山に捨ててしまった。母娘はそこで、ともに雷に打たれ死んでしまった。この宇津尾山は、更科十郎家秀が伯母を捨てたため、伯母捨山と云うようになった。<br>上野の国司は、父と妹が亡くなった跡に神社を建てた。これを淵名明神と云う。次に、赤城の沼に行き、赤城御前に会うために山に登った。黒檜山の西麓の大沼の岸に下りて、祭祀を行う、鴨が飛んできた。鴨の背には淵名姫と赤城姫が乗っていた。そこに天から彼らの母も降りてきた。母と二人の姫は神々の世界に帰ったが、鴨は大沼に留まって小鳥ヶ島となった。その後、国司は父の霊とも会って語り合った。<br>国司は赤城山を下り、有馬の伊香保大夫の宿に到着した。妹の伊香保姫は、急いで国司の元に走り寄ったが、兄の膝に額を付けると、そのまま気を失ってしまった。国司も共に気を失ってしまったが、伊香保大夫の妻がが慌てて近寄り介抱すると、目を覚ました。<br>「今は、私たち兄妹は二人だけになってしまった。私は都に戻るので、この国の国司職を伊香保姫に差し上げよう。伊香保大夫が後見を務め、すべての政治を正して、この国を平和に治めるように。」<br>と国司は言った。</blockquote>
== 私的考察 ==

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