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である。
1については、「'''雷神の力の偉大さ、あるいは恐ろしさを強調するため。'''」だろうと考える。そして、やはり父系のヤオ族の伝承では、「'''子供達は雷神に選ばれたのだ。'''」という'''選民思想'''に繋がるように思う。それは「雷神に選ばれたのだから、二人の子孫は特別な人類だ。」とか、「雷神に選んで貰ったのだから、子々孫々まで雷神に従わなければならない。すなわち、雷神の代理人の'''皇帝'''に従わなければならない。」という思想だ。に従わなければならない。」という思想だ。子供達が洪水を逃れるために乗る乗り物は[[ヒョウタン]]だ。ヒョウタンは「ひしゃく」の象徴であり、「天のひしゃく」とは北斗七星のことで、北極星は「天の頂点」ともいえる帝王の星なのだから、伏羲と女媧は王権の権威の象徴ともいえる。
2については、特にヤオ族の伝承で違和感が目立つ。兄妹は父親が消えた後も天梯を昇って天庭に遊びに行くが、そこで誰にも会わない。父親が天に攻め込んだ時には天の神々が総出でそれを阻止したのに、子供達が行くとまるで人気がなく感じる。状況からみれば、雷公がやってきて「父親がいなくても自分がついているぞ。」と言ってくれてもよさそうなのに。天にはまるで最初から兄妹しかいなかったかのようだ。
=== 父系の場合、ヤオ族の伝承 ===
ヤオ族の伝承では、雷神は大洪水を起こす「'''水雷神'''」だ。父親の方は鉄の船に乗り、鉄の武器を操る'''蚩尤'''を彷彿とさせる。とすれば、雷神と大男との戦いは「'''黄帝対蚩尤'''」を投影していいると言える。」を投影していいると言える。ただ、一般的な「黄帝対蚩尤」の神話では、蚩尤に後継者がいたとはされていない。 父系文化では、伏羲と女媧一家の家長は父親である「大男」だ。父親が亡くなった後は、伏羲が後を継いで家長になる。一般的にこのような場合、伏羲が採るべき態度はどのようなものと考えられるだろうか。管理人の考え方は日本人的になるが、父親が雷神と戦っていたのなら伏羲はその跡を継いで雷神と戦うべきなのではないだろうか。いくら雷神に命を助けて貰ったとはいえ、伏羲は父の子なのだから。でなければ、雷公のところへ行ってこう言うべきではないだろうか。「私はあなたに命を助けて貰ったのだから、あなたの子になります。あなたの名を名乗らせて下さい。そして父の名前は捨てます。父の名があなたの敵の名なら、私にとっても敵の名です。」と。このどちらかが男系男子の生き方、男系男子のけじめのつけ方ではないだろうか、と管理人は考えるのだがどうだろうか。 ということで、この伝承に「'''その後'''」の物語を付け加えてみた。 <blockquote>雷公は昔は「'''良い雷公'''」で、人々の生活に役立つように定期的に必要な雨を降らせてくれていた。川も洪水なんか起こさなかった。でも、大男と喧嘩してからは人類に冷たくなって、伏羲の子供達にも冷酷だった。雨は必要がないときにどんどん降るし、川もあちこちで洪水を起こした。雷公はすっかり「'''悪い雷神'''」になってしまったのだ。伏羲は父親の後を継いで雷公と戦う決心をした。'''父親は火の神様だった'''ので伏羲は父親に倣って火を使い、鉄の武器や鍬や鋤を作った。雷公は鉄が苦手なことをちゃんと知っていたのだ。そして、火そのものまで自在に操れるようになった。伏羲自身が新たな「火の神」となったのだ。伏羲は「火の神」を意味する'''祝融'''という名を名乗るようになった。その頃、雷公はますます人類に対して田んぼや畑を潰したり、家畜を流したり、ひどいことをするようになったので、人々は親しみを込めて「雷公」と呼ぶのをやめて「'''共工'''」と呼ぶようになった。共工には部下に相柳という凶暴な蛇神までつき従っていた。祝融は立ち上がり、共工と戦った。正義と復讐のために自らを鍛えてきた祝融の前に共工は敵ではなかった。祝融は共工と相柳と戦い、これを討ち取った。その記念に戦いのあった山を「共工山」と名付けた。そして、祝融は'''禹'''と名を変えて夏という王朝を興し王となった。禹というのは「'''毒蛇'''」という意味である。毒蛇に噛まれると「'''火のように熱く感じる'''」ことからそのように名乗ったのだった。まとめれば、'''昔は良い神だった雷光は悪い水神の共工になってしまったので、禹に倒されてしまった'''のだった。</blockquote> === 昔は良い人だったのに? ===管理人が書いた「'''その後の物語'''」については全く根拠がないわけではない。中国神話の方から述べれば'''祝融が共工を倒した神'''であれば、その際に部下の'''相柳も倒した'''と考えらえる。その'''相柳を倒したのが禹'''なのであれば、'''禹とは祝融のことである'''、と自然に帰結する。一方、「良い」とか「悪い」というのはそれを見る人の立場や視点によっても変わってくるものなので、水雷神で龍蛇形の黄帝のことをさまざまな思惑から「良い神」とみなす人もいれば、その逆に「悪い神」とみなす人々も当然いたであろうと思う。管理人は、伏羲・女媧の伝承は、管理人が付け加えた物語と一体となった「'''夏の創設神話'''」の一部だったのではないか、と考える。本来の禹とは、'''父親の仇を取った英雄王'''、と言われていたのではないだろうか。その方が一王朝を創設した英雄に相応しい神話といえる。伏羲と女媧、すなわち禹と塗山氏女は「人類の創造者」ではなく「'''夏の創設者'''」とされたのだろう。でも黄帝の権力が拡大するにつれて、王権の強化のために、他にあった人類の創設神話と組み合わせる形で、「人類の創造者」にまでその姿が拡大してしまったのではないだろうか。そして、伏羲・女媧神話が元々苗族の伝承だったものならば、苗族の一部が中原にまで勢力を拡大し、夏王朝を創設したので、彼らの「'''部族創設神話'''」が、「'''夏の創設神話'''」にまで発展してしまったものだと考える。夏とは苗族の王朝だったのだろう。 「'''昔は良い人だったのに、悪人になって倒されてしまった。'''」というパターンの伝承は夏の神話の中にも存在する。夏の'''后羿'''である。 <blockquote>太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。后羿は、仲間と共に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。后羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南)を都とした。しかしその後の后羿は、伯封を殺してその母である玄妻を娶り、寒浞という奸臣を重用し、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BF 羿]より) </blockquote> また、一般的な羿神話もこのパターンである。 <blockquote>羿は、人々のために帝夋の意に逆らい、帝夋の子供達である太陽を九個まで射殺した。帝夋は羿を「'''悪人'''」とし、羿と妻の嫦娥を神籍から外して、彼らは不老不死でなくなった。羿は西王母を訪ね、不老不死の薬をもらって帰ったが、嫦娥は薬を独り占めにして飲み、月へ逃げてしまった。羿は、弟子である逢蒙(ほうもう)に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿)と言うようになった。(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BF 羿]より) </blockquote> 后羿を黄帝とすると、'''太康はまさに「炎帝」そのもの'''といえる。后羿を殺す寒浞は、雷公に認められていた伏羲と同じように后羿に可愛がられていたのに、后羿を殺してしまう。しかも、后羿の子息たちに后羿の遺体を煮たものを食べるように命じ従わぬ者を死罪にした、とのことだ(Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%92%E6%B5%9E 寒浞]より)。とすると、'''寒浞が伏羲であり祝融だった'''と言えるのではないだろうか。むしろ后羿が「偉大な指導者」だったので、死後彼を慕う人たちが后羿を神格化して「黄帝」にしたのではないか、と考える。神格化された黄帝は不老不死の存在かもしれないが、そのモデルとなった后羿は、「'''殺されてしまった人'''」だったのではないだろうか。
=== 私的解説 ===
== 関連項目 ==
* [[洪水神話・中国]]:伏羲・女媧型神話の羅列
* [[吊された女神]]:女媧の類例
* [[伏羲型神]]:伏羲の類例
* [[兄妹始祖神話]]
{{DEFAULTSORT:ふつきしよかしんわ}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:吊された女神]]
[[Category:伏羲型神]]
[[Category:伝承列伝]]
[[Category:物めぐり婚]]

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