例えば、『羲和(太陽の女神)と常羲(月の女神)は帝夋の妻である。』という記述がある。この場合、羲和と常羲は太陽や月を擬人化した存在といえる。これを『羲和と常羲は帝夋の妻である。』と書くとする。そうしたら、羲和と常羲は擬人化した神であることは誰にでも理解できようが、彼らが「太陽と月」であることは、それを知っている人にしか分からないことになる。これと同じで、苗族の伝承には、擬人化した太陽娘娘が登場する話がいくつかあるように思うのだけれども、彼らが太陽だとは誰も教えてくれない、ということである。例えば、『羲和(太陽の女神)と常羲(月の女神)は帝夋の妻である。』という記述がある。この場合、羲和と常羲は太陽や月を擬人化した存在といえる。これを『羲和と常羲は帝夋の妻である。』と書くとする。そうしたら、羲和と常羲は擬人化した神であることは誰にでも理解できようが、彼らが「太陽と月」であることは、それを知っている人にしか分からないことになる。これと同じで、苗族の伝承には、擬人化した太陽娘娘が登場する話がいくつかあるように思うのだけれども、彼らが太陽だとは誰も教えてくれない、ということである。しかも、この伝承のように太陽娘娘が4人もいたら、特に合理性を重んじ、天体や科学の知識がある現代人には、彼らが「太陽」だと、説明もされずにどうして気づけようか、ということになる。 でも、この伝承は「天狗日月食」の話で、上の3人は体の一部が欠けており、月の女神を示しているのだと思う。下の4人は太陽女神である。日本神話の天照大神も、機屋を経営する女神であり、彼女の下に「小さな太陽女神」ともいえる織り姫達が複数存在している、といえる。4人の妹は幸せな結婚にこぎ着けるが、姉達にそのエピソードはない。その理由は語られないが、姉達は「太陽が殺されて月に変化した存在」だからという潜在的な意味があるのではないだろうか。太陽が殺されて月になるという話は台湾の神話で良く見かけるエピソードである。そして、彼らを襲うヤマイヌとは、7匹いることから「軍神的な北斗七星の化身」といえることが分かる。 だから、『羲和と常羲は帝夋の妻である。』と書くと、それは『太陽と月は北極星の妻である。』という意味になるし、『北極星が人類の父で、太陽と月が母である。』という意味にもなる、と管理人は思うのだが、『太陽娘娘と月娘娘が押し入った北極星に強姦された。』って書いたら、それも『北極星が人類の父で、太陽と月が母である。』という意味になるのではないか、と気がついてぞっとする管理人である。北極星信仰を権威の象徴とした父系の王制と身分制度の確立は、このように表裏一体となった2面性を持つものではなかったのだろうか、と考える。
== 参考文献 ==