瑤姫
概要
楚の宋玉の『高唐賦』と『神女賦』(ともに『文選』所収)では「巫山の女(むすめ)」として登場し、楚の懐王の夢に現れ、契りを結んだとされる[3]。『文選』李善注に引用された『襄陽耆旧伝』によれば、瑤姫は赤帝(炎帝)の女で、まだ嫁がぬうちに死去し、巫山に葬られたとされる[4][5][6]。
五代十国時代の杜光庭の『墉城集仙録』では、瑤姫は西王母の二十三番目の娘「雲華夫人(うんかふじん)」とされ、禹の治水事業を助けてその后になったとされる[7][8]。
中華民国の学者・聞一多は、巫山神女は本来は楚の始祖女神であって、巫山神女、女媧、夏の塗山氏、殷の簡狄は、もともと同一の伝承から分化したものではないか、と推測している[9]。
比較神話学者の森雅子は、瑤姫はもとは豊穣女神であり、「天界(もしくは祀られている山)から降りてきて、地上の人間である王と交わった後、その姿を消す「聖婚の花嫁」」ではなかったかと推測している[10][11]。
瑤草
瑤草(ようそう)は、江淹の「別賦」(『文選』所収)などに見える草で、一般に『山海経』中山経にある「䔄草」と同一視される[12]。『山海経』には以下のようにある。
又東二百里曰姑媱之山、帝女死焉。其名曰、女尸。化為䔄草、其葉胥成、其華黄其実如菟丘、服之媚於人。
さらに東方二百里を、姑媱之山という。帝女がここで死んだ。その名を女尸という。死後、䔄草に姿を変えた。その葉は胥成し、其の華は黄色、其の実は菟丘のようである。これを服すれば、人から喜ばれる[13]。
1936年、民俗学者の孫作雲は、『山海経』の「姑媱山の帝女」と『高唐賦』の「巫山神女」は同一だと主張した。さらに1979年、神話学者の袁珂が、『高唐賦』は『山海経』の「䔄草」説話から発展したものだと主張し、以後、これが通説となっている引用エラー:
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瑤姫とは「死んで再生した神」であるので鬼といえる。
関連項目
参考文献
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- テンプレート:Citation - 初出『清華学報』第10巻第4期(1935年)
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↑ 袁, 1999, page665 ↑ 袁, 1999, page665 ↑ 高橋, 2001, pages343-360 ↑ 聞, 1989, page219 ↑ 高橋, 2001, page344 ↑ 袁, 1999, pages594, 665 ↑ 聞, 1989, page=213-215 ↑ 袁, 1999, pages665-666 ↑ 聞, 1989 ↑ 森, 2011, page244 ↑ 「聖婚の花嫁」だとすると、何故姿を消さねばならないのかが管理人には謎である。 ↑ 松浦, 2009, page97 ↑ 松浦, 2009, page97