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=== 三本足の意味 ===
『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』には八咫烏が三本足であるとは記述されていない。八咫烏を三本足とする最古の文献は、[[平安時代]]中期([[930年]]頃)の「[[倭名類聚抄]]」であり、この頃に八咫烏が[[中国]]や[[朝鮮]]の伝承の鳥「『古事記』や『日本書紀』には八咫烏が三本足であるとは記述されていない。八咫烏を三本足とする最古の文献は、平安時代中期(930年頃)の「倭名類聚抄」であり、この頃に八咫烏が中国や朝鮮の伝承の鳥「[[三足烏]](さんそくう)」と同一視され、三本足になったと思われる<ref name=BD307/>。
八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。[[熊野本宮大社]]では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている八咫烏が三本足であることが何を意味するかについては、諸説ある。熊野本宮大社では、八咫烏の三本の足はそれぞれ天(天神地祇)・地(自然環境)・人を表し、神と自然と人が、同じ太陽から生まれた兄弟であることを示すとしている<ref name="crow"/>。また、かつて熊野地方に勢力をもった[[熊野三党]]([[榎本氏]]、[[宇井氏]]、[[藤白鈴木氏]])の威を表すともいわれる。三本足の意味が、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、[[宇佐神宮]]など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、[[三つ巴]]であることと同じ意味を持っているとする説もある。元々日本神話にあった「神の使いとしての鳥」の信仰と中国の「太陽の霊鳥」が融合した可能性がある。また、かつて熊野地方に勢力をもった熊野三党(榎本氏、宇井氏、藤白鈴木氏)の威を表すともいわれる。三本足の意味が、古来より太陽を表す数が三とされてきたことに由来するとする見方は、宇佐神宮など太陽神に仕える日女(姫)神を祭る神社(ヒメコソ神社)の神紋が、三つ巴であることと同じ意味を持っているとする説もある。元々日本神話にあった「神の使いとしての鳥」の信仰と中国の「太陽の霊鳥」が融合した可能性がある<ref name="TO">[[山北篤]] 『東洋神名事典』 新紀元社、349頁。</ref>。
=== 中国の「三足烏」 ===
{{main|[[三足烏]]}}
[[中国神話]]では[[三足烏]]は太陽に棲むといわれる<ref name=BD307/>。[[陰陽五行説]]に基づき、二は陰で、三が陽であり、二本足より三本足の方が太陽を象徴するのに適しているとも、また、朝日、昼の光、夕日を表す足であるともいわれる<ref name="nagomi" />。
中国では[[前漢]]時代(紀元前3世紀)から[[三足烏]]が書物に登場し、王の墓からの出土品にも描かれている。三脚の特色を持つ[[三脚巴]]やその派生の三つ巴は非常に広範に見られる意匠である。
== 歴史 ==
[[File:Tennō Jimmu.jpg|thumb|280px|八咫烏に導かれる神武天皇([[安達吟光]]画『神武天皇東征之図』)]]
上述のように[[三足烏]]の伝承は古代中国の文化圏地域で見られる。中国であるならば金烏。朝鮮半島ならば、かつて[[高句麗]](紀元前1世紀~6世紀)があった地域(現在の[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]])で古墳に描かれている。[[高句麗]]の人々は[[三足烏]]が太陽に棲み、亀が月に棲むと信じていた。一方、朝鮮半島南部(現在の[[大韓民国|韓国]])にまでは広がっていなかったという説がある<ref name="nagomi" />。
== シンボルマーク ==
[[ファイル:China Incident War Medal 01.JPG|thumb|right|180px|支那事変従軍記章。「二本足の八咫烏」を中心に据えて[[菊花紋章|菊紋]]・[[軍旗#大日本帝国陸軍|軍旗]]([[旭日旗]])等をあしらう{{Refnest|group=注釈|name=kisho|ただし、日名子が当初制作した章の粘土原型は八咫烏を三本足で表していたが、これについて、八咫烏を三本足とするのは中国の伝説における三足烏と混同されたもので、八咫烏を三本足か二本足のいずれかに定める根拠は存在しないとする意見が政府局内から挙がり、その結果「今殊更三足トナシテ支那流ニ阿ル要ナク况ンヤ支那克服ノ従軍記章ニ之ヲ使用スルハ適当ナラス」として、当時交戦国であった中国に関わる要素を排除するべく、二本足に修正した上で制定・発行された経緯がある<ref>総理府賞勲局『賞勲局百年資料集 上』1978年7月15日、p. 451-452</ref><ref>{{国立公文書館デジタルアーカイブ|M0000000000001767783|支那事変従軍記章令ヲ定ム}}、2019年10月21日閲覧。</ref><ref>広田肇一『日名子実三の世界 昭和初期彫刻の鬼才』思文閣、2008年9月15日、p. 101 - 102</ref>。}}。]]
{{see also|日本サッカー協会#シンボルマーク}}
八咫烏は、近代以降の日本においても様々な場面でシンボルマークとして利用されてきた。特に、[[日本サッカー協会]]のシンボルマークおよび[[サッカー日本代表|日本代表]]のエンブレムの意匠として用いられていることで知られている<ref name=BD307/>。このシンボルマークは、大日本蹴球協会(日本サッカー協会の前身)創設に尽力した[[漢文学|漢文学者]]・[[内野台嶺]]らの発案を基に、[[彫刻家]]・[[日名子実三]]が三本足の烏としてデザイン化し、[[1931年]](昭和6年)に採用されたものである。
その他、熊野周辺を運行しているバス会社、[[熊野交通]]の[[社紋]]には、八咫烏が採用されている。
 
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ファイル:Military intelligence command JGSDF.png|陸上自衛隊[[中央情報隊]]
ファイル:Middle Army Military intelligence.gif|陸上自衛隊[[中部方面情報隊]]
ファイル:Yatagarasu A.svg|八咫烏は[[サッカー日本代表]]のマスコット
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== ギャラリー ==
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File:Yatagarasu,_Kumano_Hongū_Taisha.jpg|旗幟と八咫烏 [[熊野本宮大社]]
ファイル:Kumano-hongû-taisha Shrine - Yatagarasu-Postbox.jpg|八咫烏ポスト [[熊野本宮大社]]
File:Yatagarasu,_Kumano_Nachi_Taisha.jpg|八咫烏、[[熊野那智大社]]
File:Yuzuruha-ball.jpg|thumb|境内にある[[サッカーボール]]のオブジェ、[[弓弦羽神社]]
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== 小惑星 ==
[[群馬県]][[大泉町]]の天文家・[[小林隆男]]は、[[1997年]](平成9年)に発見した[[小惑星]]([[仮符号]]1997 AY1)に「八咫烏」と命名、[[2004年]](平成16年)[[8月9日]]に(9106)[[八咫烏 (小惑星)|八咫烏]]として登録された。
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===

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