この故事から、「巫山の雲雨」あるいは「朝雲暮雨」は、男女が夢の中で契りを結ぶこと、あるいは男女の情交を意味する故事]語として用いられるようになった<ref>https://kotobank.jp/word/%E5%B7%AB%E5%B1%B1%E3%81%AE%E9%9B%B2%E9%9B%A8-372806, 巫山の雲雨, コトバンク, 2017-04-16</ref><ref>https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E9%9B%B2%E6%9A%AE%E9%9B%A8-568105, 朝雲暮雨, コトバンク, 2017-04-16 </ref><ref>巫山の雲雨, 日本国語大辞典 第2版, volume:11, 小学館, 2001-11-20, isbn:4-09-521011-7, page821</ref>。なお、雲夢沢は現在の湖北省武漢市から荊州市にかけての長江北岸一帯にあった沼沢地で、巫山とは離れすぎているため、この賦の舞台は現在の巫山ではなく、現在の湖北省漢川市の南方である、とする説もある<ref>高橋, 2001, page344</ref>。
神女の素性について、『文選』所収の「高唐賦」では自ら単に「巫山之女」と名乗るだけであるが、『文選』所収の『文選』所収の[[江淹]]「別賦」[[李善 (唐)|李善]]注に引く「高唐賦」、および江淹「雑体詩」李善注に引く『宋玉集』では、帝の季女(末娘)で、名を[[瑤姫]]といい、未婚のまま死去して巫山に祀られたと説明されている{{sfn|小尾|1974|page=441}}{{sfn|高橋|2001|page=344}}{{sfn|聞|1989|pages=182, 218-220}}。また、李善の引用する『[[襄陽記|襄陽耆旧伝]]』では、瑤姫は赤帝([[神農|炎帝神農]]){{Refnest|group="注釈"|『{{仮リンク|渚宮旧事|zh|渚宫旧事}}』巻三に引く『襄陽耆旧伝』では「夏帝」{{sfn|聞|1989|page=219}}。}}の末娘とされている{{sfn|高橋|2001|page=344}}{{sfn|袁|1999|pages=594, 665}}。後代の伝承であるが、[[後蜀 (十国)|後蜀]]の[[杜光庭]]の『墉城集仙録』では、雲華夫人こと瑤姫は[[西王母]]の第23女で、[[禹]]の后となったとされる{{sfn|聞|1989|page=213}}。[[中華民国]]の学者・[[聞一多]]は、この伝承を詳細に分析し、高唐神女は本来は楚の始祖女神であって、高唐神女、[[夏 (三代)|夏]]の始祖・[[女媧]]、[[禹]]の后・[[塗山氏女|塗山氏]]、[[殷]]の始祖・[[簡狄]]は、もともと同一の伝承から分化したものではないか、と推測している{{sfn|聞|1989}}。
[[ファイル:Spitze-der-Goettin.jpg|thumb|250px|巫峡十二峰の一つ、神女峰]]
== 懐王について ==
'''懐王'''(かいおう)は、中国戦国時代の楚の王(在位:紀元前328年 - 紀元前299年)である。姓は'''羋'''、氏は'''熊'''。諱は'''槐'''。
秦の張儀の謀略に引きずり回され、国力を消耗し、最後は秦との戦いに敗れ秦に幽閉されたまま死去した。戦国時代の暗君の代名詞的存在と目され、'''楚の悲劇の象徴'''とされた。
孫(一説に玄孫)が、項梁に反秦軍の象徴として担ぎ出され即位するも、実権を持たず、疎んじられたすえに殺された、同様に懐王と呼ばれた後の義帝である。
== 神女の素性について ==
=== 「高唐賦」 ===
『文選』所収の「高唐賦」では自ら単に「巫山之女」と名乗るだけである。
== 参考文献 ==