差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
2,048 バイト追加 、 2022年9月8日 (木) 08:34
== 私的解説 ==
 紋語りは大きく2つの要素からなっており、一つは「特定の娘(末娘)と野獣」の婚姻譚である。怪物退治の要素はない、あるいはほとんどない。野獣は娘の裏切りにあって死にかかるが、娘が助けることとなっている。娘を野獣から助ける英雄は登場しない。要は、「クピードーとプシュケー型」でも「エンリルとニンリル型」でも良いのだが、若い娘を人身御供に対して肯定的な物語といえる。 紋語りは大きく2つの要素からなっており、一つは「特定の娘(末娘)と野獣」の婚姻譚である。怪物退治の要素はない、あるいはほとんどない。娘は父親の失態の身代わりとなって野獣と結婚する<ref group="私注">このような展開は日本の「雉も鳴かずば」と対照的な展開であると思う。「雉も鳴かずば」では娘のために盗みを働いた父親自身が[[人柱]]にされる。「美女と野獣」は本来「雉も鳴かずば」型の神話だったものが、娘が生贄となる型に変更されたものなのではないだろうか、と管理人は疑問に思う。</ref>。野獣は娘の裏切りにあって死にかかるが、娘が妻となって助けることとなっている。'''娘を野獣から助ける英雄は登場しない'''。要は、「クピードーとプシュケー型」でも「エンリルとニンリル型」でも良いのだが、若い娘を「神の妻にする」と称して人身御供にすることの対して肯定的な物語といえる。死んだ野獣を新たに生まれ変わらせるために若い女性を生贄に捧げる、という趣旨は「エンリルとニンリル」の神話の方が理解しやすいかもしれない。
 妹に意地悪して(一応)罰せられる姉がいるのも「クピードーとプシュケー」的だが妹と野獣の婚姻を邪魔しようとしたから罰せられたのであって、動機は妬みとなっている。日本の「 妹に意地悪して(一応)罰せられる姉がいるのも「クピードーとプシュケー」的だが妹と野獣の婚姻を邪魔しようとしたから罰せられたのであって、動機は単なる'''妬み'''となっている。日本の「[[うりこひめとあまのじゃく]]」も、一連の騒動のあまのじゃく側の原因は妬みであるように思う。  物語中に登場する「仙女」は、本来格の高い女神であって、野獣は、元はこの女神に対するタンムーズ的な生贄だったと思われる。よって、物語は'''上位の女神に対する下位の男神を再生させるために、更に若い女性の生贄を捧げる'''、という重層化した人身御供の物語となっている。古いタンムーズ神話で、'''イナンナの身代わりとして冥界に落とされようとするドゥムジ(タンムーズ)を更に助けるために姉妹のゲシュティンアンナが冥界に下る'''というエピソードがある。
 野獣は金持ちであり「バラの花」の化身である。よって、植物神でもあり、樹木神でもある、といえる。折ってはいけない(殺してはいけない)樹木神を殺してしまったから、神を再生させるために娘の生贄が必要とされる、とそのような思想が崩れたもののように思われる。あるいは、これは'''寡婦殉死'''の思想が変化したものかもしれないと思う。印欧語族には、夫が亡くなると妻が殉死する、という伝統がところどころに垣間見える気がする。
 しかし、表面的には植物神でもある炎帝(あるいは川の神)に妻を生贄として与えて再生させよう、という趣旨の神話が変化したものと思われる。クピードーもエンリルも炎帝が変化したものといえよう。 しかし、表面的には植物神でもある炎帝(あるいは川の神)に妻を生贄として与えて再生させよう、という趣旨の神話が変化したものと思われる。野獣は中国神話の炎帝に相当し、クピードーもエンリルも炎帝が変化したものといえよう。「仙女」は西王母あるいは(かつ)女媧が変化したものといえ、かつて母系が盛んであった時代には、古代中国でも女神の方が炎帝よりも上位に来る存在だったことが示唆されるのではないだろうか。印欧語族の文化に影響を与えているスキタイの太母女神がエキドナという蛇女神で現されているので、類似性からいえば、「仙女」は西王母というよりは、蛇女神である女媧に近い存在なのかもしれない、と考える。
== 関連項目 ==

案内メニュー