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506 バイト追加 、 2022年9月6日 (火) 09:33
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<blockquote>此の理由は祭日に人身御供となることを土地の者が知るようになり、これを免かれんがために、外出せぬようになったので、かく旅人を捕へることになったのであるが、…(中略)…旅行者も最初の者か第三番目の者か、女子か男子か、その神社のしきたりで、種々なるものが存していた</blockquote>
なお尾張國府の件は、旅人も捕まることを警戒して寄り付かなくなってしまうため、尾張藩が藩命を出して止めさせたとある<ref group="私注">尾張國府宮の直會祭は、元は祭関係者が「最初に出会った男」を捕らえるもので、旅人が生贄に限定されたものではなかったようである。体裁は穢れを人身御供に押しつけて殺す(穢れそのものを殺す)というものだが、國府宮は木曽川に近く、「川に穢れを流す」というような津島的な考え方があったのではないのだろうか? 尾張国には尾張猿田彦神社、犬山市の猿田彦神社など、川と関係する猿田彦神社が多く、猿田彦が川の神として扱われているように感じる。猿神に対して人身御供を捧げる話は多い。その多くは女性を捧げるものが多いのだが、猿神(川の神)に対して男性を生贄に捧げる習慣があったとすれば、元々人身御供の祭祀は生贄に性別を問わなかった可能性もある。猿田彦も「殺される神」であるので、人身御供は猿田彦の化身とされたのであろうか。裸の男、というのであれば蛭子も連想させる。川の神である猿田彦に見たてた男を殺したのであれば、ヤマタノオロチ退治との関連も示唆されるように思う。尾張國府宮に独特の祭祀といえようか。確か今昔かあるいは宇治拾遺に「生贄に選ばれた旅人の男が猿神を退治した」という話があったように記憶している。とすれば国府宮の祭祀は「旅人が猿神を退治したことこそが間違っている」というアンチテーゼのようにも思える。興味深いことである。</ref><refgroup="私注">今昔物語には、巻第二十六第七に「美作国(現在の岡山県)神依猟師謀止生贄語」、第八に「飛騨国猿神止生贄語」がある。宇治拾遺物語には巻第十の六に「吾妻人生贄をとどむる事」があり、これは今昔物語の美作国の物語とほぼ同一の話である。尾張国府宮の祭祀と比較する場合、距離的に近い飛騨の物語とまず比較すべきと思う。旅人は、妻の身代わりになるとは知らずに隠れ里に留め置かれるが、妻によって生贄を求める猿神のことを知り、これを退治する。要は、「炎黄神話」が原型であることは明らかなわけだけれども、遠江では黄帝が犬に変えられてしまうし、尾張では「黄帝こそが生贄になるべきである」と国府宮の祭祀で主張されているように思う。尾張氏関係者が何故、「黄帝こそが生贄になるべきである」という祭祀を江戸時代に至るまで執念深く続けたのか。それは、尾張氏が炎帝の子孫であると自負していたからではないのか、と個人的には思うわけですが。尾張國府宮の直會祭は、本来追儺の祭祀ではなく、大元を辿れば炎帝に対する雨乞いの儀式か何かのように思います。静岡では、猿神に対する生贄は禁忌とされながら、事実上は総社の大国主を猿神に見たてて、女神を生贄に捧げる祭祀をやっているように思うわけですが。男衆が裸になるのは、彼らもまた生贄である、という表面的なジェスチャーのようにも感じます。</ref>。
折口信夫の論じた「まれびと信仰」では、外界から来た客人を神もしくは神の使者として扱うとしており、旅人を生贄とすることは、神に近い存在の巫女を生贄にすることと共通点があると考察される。
<blockquote>坂戸明神の話に移る。久しい間の伝承で神聖にされた、馬鹿にできぬ儀式がある。祭祀の儀式としての人身御供の存在説を主張する者の提供した、或は寧ろ提供し得る證據(しょうこ)物件の中で最も有力なるものである。
爼(マナイタ)と庖丁(ホウチョウ)、それから生きた實(実)物の人間、考えたばかりでも身の毛が立つ。爼と庖丁とが、果たして人間を神に供えた風習の痕跡だとしたらどうだ。犠牲を享(う)ける神は、鎮守の社に祀られる神である。捧げるものは氏子の部落である。捧げられる犠牲は、氏子の仲間から取らなければならぬ。人身御供という風習の言葉の中には、久しい間の慣例と云うことの意味が含まれているではないか。鎮守の社の祭祀は、年毎に行われる儀式である。人身御供と云うことが此祭祀の恒例となっている以上は、春秋二度とまで行かずとも毎年一度か少なくとも二三年に一度位は行わなければなるまい。凡ての伝説は、毎年のこととしているではないか(高木敏雄)<ref group="私注">坂戸明神は千葉県袖ケ浦市にある。今昔物語の中の猿神退治では、生贄を裸にしてまな板の上にのせて神に捧げる、という記述が出てくる。(今昔物語では生贄を直接殺すのは猿神自身とされている。)これは猿神に人身御供を捧げた祭祀の名残なのではないだろうか。そもそも坂戸って物部氏の一派の名字では? と管理人は思うわけですが。</ref></blockquote>
※「広報ふじ1967 ふるさとのでんせつ」1967年5月15日発行3頁で語られる「生贄の淵」の人身御供を伴う祭りは12年毎に行われると書かれており、諏訪神社で行われていたとされる人身御供の儀式は3年毎であったと考えられているため、人身御供を伴う祭りが、必ずしも毎年あったとされているわけではない。

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