桓因が桓雄を人間世界に遣わすにあたり持たせた「天符印」の「印」とは御璽のことである。『説文解字』に「印、執政所持信也」とあり、「印章」とは、政治を執るものが信を明らかにするために所持するものである<ref name="高橋2-3"/>。『正字通』に「印、秦以前、民皆金玉為印、竜虎鈕、惟其所好、秦以来、天子始用璽、独以玉」とあり、天子が御璽を使用するのは秦代以後であり、檀君神話には「三つの印」「三危太伯」「率徒三千」「人間三百六十余事」などの三あるいは三の倍数に当たる数字が登場し、物語の作者あるいは伝承者は、「三」という数字に軽くない執着をもっている<ref name="高橋2-3"/>。『易経』に「有天道焉、有人道焉、有地道焉、三材而両之、故六、六者非宅也、三材之道也」とあり、この場合の「三」とは「天地人」であり、『説文解字』に「三、数名、天地人之道也、於文一耦二為三、成数也」とあり、段玉裁の注には「王下曰、三者、天地人也」とある<ref name="高橋2-3"/>。『説文解字』に「王、天下所帰往也、董仲舒曰、古之造文者、三画而連其中、謂之王、三者、天地人也、而参通之者也、孔子曰、一貫三為王」とあり、「三」という数字は、王為る者の象徴であり、「天地人」という概念が、「三」という数字に象徴され、この概念が定着するのは「天人相関説」を唱えた董仲舒の漢代になる。桓雄に与えられた「三つの印」は、桓因の信頼を証明する印、地上の支配を許されていることを証明する印、地上に生きる人を支配することを許されていることを証明する印をあらわし、それらはとりも直さず「天地人」という概念が裏付けとなっており、檀君神話の成立は漢代以前には遡らない<ref name="高橋2-3">高橋, 2005, p2-3</ref>。
檀君神話に登場する主命の「命」は「命令」を指しているとみられ、主病の「病」は[[漢民族|漢人]]の古典『[[傷寒論]]』を思わせ、主刑の「刑」は[[諸子百家]]の[[法家]]・[[商君書|商子]]を思わせ、主善悪の「善悪」は[[儒教]]を思わせる檀君神話に登場する主命の「命」は「命令」を指しているとみられ、主病の「病」は漢人の古典『傷寒論』を思わせ、主刑の「刑」は諸子百家の法家・商子を思わせ、主善悪の「善悪」は儒教を思わせる<ref name="高橋12"/>。したがって、檀君神話の成立は、中国思想の朝鮮半島への伝播と熟成時間を考慮すると、[[中国の歴史]]で[[儒教]]が国是となった[[漢|漢代]]経過後の[[六朝]]以後、王朝が一定の安定を経験した[[隋]]・[[唐]]程度まで降るとみられる。したがって、檀君神話の成立は、中国思想の朝鮮半島への伝播と熟成時間を考慮すると、中国の歴史で儒教が国是となった漢代経過後の六朝以後、王朝が一定の安定を経験した隋・唐程度まで降るとみられる<ref name="高橋12">{{Harvnb|高橋|, 2005|p=12}}, p12</ref>。
檀君神話に登場する[[風神|風伯]]、雨師、雲師という語は、『[[韓非子]]』に「風伯進掃、雨師灑道」とあるため[[秦|秦代]]には風伯および雨師という語はあったものとみられ、『[[史記]]』には「時若薆薆将混濁、召屏翳誅風伯而刑雨師」とあり、『[[周礼]]』には「以槱燎祀司中、司令、飌師、雨師」とあるため、風伯および雨師は[[漢|漢代]]には[[中原]]まで広がっていた概念とみられる。雲師は、『史記』に「(黄帝)遷徙往来無常処、以師兵為営衛、官名皆以雲命、為雲師」とあるため、風伯、雨師、雲師は北方では漢代以降に広がった概念とみられる檀君神話に登場する風伯、雨師、雲師という語は、『韓非子』に「風伯進掃、雨師灑道」とあるため秦代には風伯および雨師という語はあったものとみられ、『史記』には「時若薆薆将混濁、召屏翳誅風伯而刑雨師」とあり、『周礼』には「以槱燎祀司中、司令、飌師、雨師」とあるため、風伯および雨師は漢代には中原まで広がっていた概念とみられる。雲師は、『史記』に「(黄帝)遷徙往来無常処、以師兵為営衛、官名皆以雲命、為雲師」とあるため、風伯、雨師、雲師は北方では漢代以降に広がった概念とみられる<ref>{{Harvnb|高橋|, 2005|p=6}}, p6</ref>。
檀君神話の後文にみえる主穀、主命、主病、主刑、主善悪などの表現は『[[周礼]]』などに登場する「司書、司会、司諫、司禄、司命、司庫、司刑」などの表現と非常に酷似しており、檀君神話は『周礼』を参考にしているとみられる。これらから檀君神話の成立時期を把握することができる<ref>{{Harvnb|高橋|2005|p=6-7}}</ref>。