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30 バイト追加 、 2022年7月26日 (火) 13:30
 オーストロネシア語族は「射日神話」を持つ人々でもある。台湾の射日神話では、「2つの太陽を射落としたところ、落ちた方は'''死んで月に変化した'''」というものがある。ラビエが'''死んで月に変化した'''という神話と比較すると、ラビエとは「'''射落とされて死んだ太陽神'''」ということができる。ということは、ムルア・サテネは本来「'''太陽女神'''」だったのではないだろうか。一方アメタが狩人で、「獣の王」であったとすると、イノシシはアメタ自身ともいえる。また、イノシシはアメタが狩ってくる「'''種としてのよそ者'''」の象徴でもあった。すると「太陽神トゥワレ」とは、イノシシでもあり、太陽女神に種を提供するだけの存在が、逆に「太陽女神を植物と同じものとすること」で、彼女を食い殺してしまい、「'''太陽神を食べて太陽神と同一化したが故に'''」太陽神となった神なのではないだろうか。一方、ムルア・サテネの「母として生み出す機能」は全て失ってしまうと新たな生命が誕生しなくなるので、彼女には「月の女神」として地位が与えられたのではないだろうか。ムルア・サテネの死と、その機能の大幅な制限は「'''母系の文化の失墜'''」である。人々は母系の女神の与えてくれる「永世」を失い、いずれ時期が来れば化身である「子供」を生贄として食い尽くしてしまう豚のトゥワレ(アメタ)に食われて、彼と一体となるために死ぬ運命を背負うことになった。」である。人々は母系の女神が部族と共に連綿と続くという「永遠性」を失い、いずれ時期が来れば化身である「子供」を生贄として食い尽くしてしまう豚のトゥワレ(アメタ)に食われて、彼と一体となるために死ぬ運命を背負うことになった。
 <span style="color:brown">'''歴史的考察についてのまとめ'''</span>。母系社会において、太陽女神が母女神であった時代には、アメタは女神に生贄を捧げて豊穣を求める存在、'''女神を支える存在'''だった。そもそも「太陽女神」とは、天にある太陽を神格化し、擬人化・擬動物化したものといえ、人の世界では人間が「神の化身」とか「神の代理人」と考えられたであろうが、特定の個人を指すものではなかった、と考える。例えばネパールのクマリのように「人としての太陽女神」は'''女神でもあるが一定の条件を満たせば、次の者にその地位が継承されるもの'''でもあったと思われる。たとえ女神が終生女神であったとしても、人としての死が訪れれば、その地位は自然的に次の女神に受け継がれる。それは現代的には首相とか大統領といったような「'''職能'''」のようなものだと考えた方が理解しやすいかもしれない、と思う。一人一人の代々の女神は、人間でもあり寿命もあるが、その地位が代々途切れなく継承されることで、「'''太陽女神は永遠のもの'''」となるのである。ハイヌウェエレ型神話に当てはめれば、「ムルア・サテネ」は「女神としての職業」であり、「ハイヌウェレ」は「代々のムルア・サテネの内の一人」ということになろう。どちらも「同じ女神」なのだが、「ムルア・サテネ」は個人ではなく、「ハイヌウェレ」は'''個人'''なのである。ヴェマーレ族がハイヌウェレ神話に基づく祭祀をどの程度行っていたのかは定かでないが、これが単なる神話の内に留まり、祭祀として定期的に行う形式がなければ、「ハイヌウェレ」は'''個人'''の域を出ない。神話の中で、アメタが「不幸な出来事」と考えたように、一人の少女が不幸な死に方をした、という個人の物語である。この神話に沿った祭祀がある程度存在していれば、祭祀の度に「ハイヌウェレ」の役を務める者が必要となる。これについて人間の娘を生贄にするのか、イモ類を代替にするのか、あるいは他の者を代替とするのかは文化や考え方の差によろうが、人や何かを殺すこと、を「連続的」に常に行うことは不可能である。(そのようなことをしたら、しまいには部族は一人もいなくなってしまうであろう。)とすれば、「ハイヌウェレ」は「常に存在する」というような連続性のある存在とはなり得ず、「職能」とみなすとしても、それは「祭祀の時だけ」というように断続的な存在にしかなり得ない。「ハイヌウェレ」は「ムルア・サテネ」のように「の域を出ない。神話の中で、アメタが「不幸な出来事」と考えたように、一人の少女が不幸な死に方をした、という個人の物語である。この神話に沿った祭祀がある程度存在していれば、祭祀の度に「ハイヌウェレ」の役を務める者が必要となる。これについて人間の娘を生贄にするのか、イモ類を代替にするのか、あるいは他の者を代替とするのかは文化や考え方の差によろうが、人や何かを殺すこと、を「連続的」に常に行うことは不可能である。(そのようなことをしたら、しまいには部族の者は一人もいなくなってしまうであろう。)とすれば、「ハイヌウェレ」は「常に存在する」というような連続性のある存在とはなり得ず、「職能」とみなすとしても、それは「祭祀の時だけ」というように断続的な存在にしかなり得ない。「ハイヌウェレ」は「ムルア・サテネ」のように「'''永遠'''」の存在にはなれない。「ムルア・サテネ」と「ハイヌウェレ」はこのように、「同じ者」であっても「異なる者」なのである。よって、「ハイヌウェレ」の死と共に、「ムルア・サテネ」の'''職能や権限の狭小化、死'''、が誕生するのであれば、そのような思想は、本来のムルア・サテネの全能性に沿わない思想であるため、'''後から人為的に付け加えられたもの'''と言うしかないのである。

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