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39 バイト除去 、 2025年1月31日 (金)
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<blockquote>祝は神明の垂跡の初め、御衣を八歳の童男に脱ぎ着せ給ひて、大祝と称し、「我に於いて体なし、祝を以て体とす」と神勅ありけり。<br/>
これ則ち御衣祝(みそぎはふり)有員(ありかず)、神氏の始祖なり。家督相次ぎて今にその職を忝くす。<ref name="Hanaya" /><ref name="Kanai" />}}</blockquote>
他文献では、有員は桓武・平城天皇の時代の人物とされている<ref>『前田氏本神氏系図』のように用明朝に生きていた人とする文献もある。</ref><ref>北村皆雄「「ミシャグジ祭政体」考」『古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究』古代部族研究会編、人間社、2017年、102-103頁。</ref>。桓武天皇の皇子とする文書もある<ref>宮地直一『[https://books.google.co.jp/books?id=UHYSgY4lTZcC&pg=PA44#v=onepage&q&f=false 諏訪史 第2巻 後編]』信濃教育会諏訪部会、1937年、92-95頁。</ref><ref>金井典美「諏訪信仰の性格とその変遷―諏訪信仰通史―」『諏訪信仰の発生と展開』古代部族研究会編、人間社、2018年、72-78頁。</ref><ref>諏訪教育会編『[https://books.google.co.jp/books?id=u2Mf7Ef60FkC&pg=PA11 諏訪史年表]』諏訪教育会、1938年、11-12頁。</ref>。なお、実在したかどうかは定かではなく、大祝家の始祖ではなく中興の祖とする説や<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、712-713頁。</ref>、中世に創作された人物とする説<ref name="aoki2012ohori"/>がある。
諏訪明神の口述といわれ、中世の御射山祭に大祝が読み上げた『'''陬波御記文'''(すわみしるしぶみ)』<ref name="kanaimishirushibumi">金井典美「金沢文庫古書「陬波御記文」と「陬波私注」」『諏訪信仰史』名著出版、1982年、122-191頁。</ref>では、「陬波大王」が甲午を期して'''姿を隠した'''と言われている。更に『御記文』の注釈書『陬波私注』(鎌倉時代末期)<ref name="kanaimishirushibumi" />によれば、陬波大王が生まれたときの干支も同じく甲午であったという<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、116-117頁。</ref>。
なお、『陬波私注』では大祝有員が諏訪明神をともなって天竺から日本へやってきて、明神の叔父にあたる「{{読み仮名|続旦|そくたん}}大臣」とされているなお、『陬波私注』では大祝有員が諏訪明神をともなって天竺から日本へやってきて、明神の叔父にあたる「続旦(そくたん)大臣」とされている<ref>福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、118-119頁。</ref>。
===蝦蟆神退治===
『上社物忌令』と『陬波私注』には以下の伝承が見られる。
{{quotation|<blockquote>正月一日の蝦蟆狩之事<br />蝦蟆神成大荒神、乱悩天下時、大明神彼ヲ退治御座し時、四海静謐之間、陬波ト云字ヲ{{Ruby|波陬|なみしづか}}なりと読り、口伝多し。望人ハ尋へし、于今年々災を除玉ふ、謂ニ蟇狩是ナリ。|『上社物忌令』(神長本)より</small>蝦蟆神成大荒神、乱悩天下時、大明神彼ヲ退治御座し時、四海静謐之間、陬波ト云字ヲ波陬(なみしづか)なりと読り、口伝多し。望人ハ尋へし、于今年々災を除玉ふ、謂ニ蟇狩是ナリ。(『上社物忌令』(神長本)より)<ref name="hara">原正直『龍蛇神:諏訪大明神の中世的展開』人間社、2012年、18頁。</ref><ref name="chusei118">福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、118頁。</ref>}}</blockquote>
つまり、諏訪明神が大荒神となって天下を悩ませている「'''蝦蟆(蛙)神'''」を退治して、四海が静謐となった。このことから「波しずか」とも読める「{{読み仮名|陬波|すわ}}」という名を得た。口伝によると、元旦に行われる」を退治して、四海が静謐となった。このことから「波しずか」とも読める「陬波(すわ)」という名を得た。口伝によると、元旦に行われる'''[[諏訪大社#年間祭事|蛙狩神事]]'''はこの出来事を模した神事である<ref name="hara" />。
更に明神が退治した蝦蟆神を[[竜宮城]]に通ずる穴に閉じ込め、石でふたをし、その上に座した、ともいわれている<ref>金井典美『諏訪信仰史』名著出版、1982年、177頁。</ref>。

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