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以後も丹生都比売神社は高野山と密接につながり、高野山の荘園には神霊が勧請されて各地に丹生神社が建てられた<ref name="地名"/>。そのため当社境内にも多宝塔などの仏教系の伽藍が多く築かれ、その様子は鎌倉時代の「弘法大師・丹生高野両明神像」(金剛峯寺蔵)に見える境内図にも描かれている<ref name="地名"/>。後世には、修験道の修行の拠点にもなった。
元寇の際には、丹生都比売神社は神威を表したとして一躍有名となり、公家・武家から多くの寄進を受けた<ref name="地名"/>。この頃から、紀伊国一宮を称するようになったと見られている<ref name="一宮"/>。紀伊国では古くより日前神宮・国懸神宮(和歌山市)が一宮の位置づけにあったが「一宮」の呼称自体はなく、丹生都比売神社が弘安8年(1285年)を初見として「一宮」を称し、以後一宮が並立した<ref name="一宮">{{Cite book ja-jp|author=井上 寛司|year=, 2009|title=, 日本中世国家と諸国一宮制|series=, 中世史研究叢書16|, isbn=:978-4-87294-545-4|page=44}}, p44</ref>。なお、他に一宮を称した神社として[[伊太祁曽神社]](和歌山市)がある。。なお、他に一宮を称した神社として伊太祁曽神社(和歌山市)がある。
== 関連項目 ==

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