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1 バイト追加 、 2024年12月20日 (金)
創建の年代は不詳。『播磨国風土記』逸文<ref group="原">『釈日本紀』巻11(述義7)便到新羅時随船潮浪遠逮国中条所引『播磨国風土記』逸文。</ref>には「'''爾保都比売命'''(にほつひめのみこと)」が見え、丹生都比売神と同一視される<ref name="地名">『和歌山県の地名』丹生都比売神社項。</ref>。同文によれば、神功皇后の三韓征伐の際、爾保都比売命が国造の石坂比売命に憑いて神託し、赤土を授けて勝利が得られたため、「管川の藤代の峯」にこの神を祀ったという。その場所は現在の高野町上筒香の東の峰(旧鎮座地か:管川の藤代の峯(比定地))に比定され<ref group="注">「筒香(つつが)」は「'''管川(つつかわ)'''」からの転訛とされる。</ref>、'''丹生川の水源地'''にあたる<ref name="地名"/>。また同地は丹生都比売神社の旧鎮座地と見られているが、そこから天野への移転の経緯は明らかではなく<ref name="地名"/>、高野山への土地譲り(後述)に際して遷ったとする説がある<ref name="神々"/>。
一方『丹生大明神告門』<ref group="注" name="丹生大明神告門丹生大明神告門1">『丹生大明神告門』は丹生都比売神社に伝わる祝詞。「告門」は「のりと」と読む。『延喜式』収録の祝詞ではなく、平安時代以降伝来されたものになる。</ref>では、丹生都比売神は伊都郡奄田村(現・九度山町東北部)の石口に天降り、大和国吉野郡の丹生川上水分峰に上ったのち、大和国・紀伊国の各地に忌杖を刺し、開墾・田地作りに携わって最終的に天野原に鎮座したと伝える<ref name="神々"/>。
また『日本書紀』神功皇后紀<ref group="原">『日本書紀』神功皇后摂政元年2月条(神道・神社史料集成参照)。</ref>には、紀伊国の小竹宮<ref group="注">「小竹宮」は御坊市の小竹八幡神社と伝えられる(http://www.wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=6001, 小竹八幡神社, 和歌山県神社庁, 2013-10-22)。</ref>において'''天野祝'''と'''小竹祝'''を同所に葬ったため昼も夜も暗くなってしまい、別々に埋葬し直して元通りになったという説話がある。この「天野祝」(丹生祝)は丹生都比売神社の神職と見られる<ref name="神々"/>。

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