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享保18年(1733年)『田子の古道』には、以下のようにある。あるとき東国より7人の神女がやってきたが、生贄として捕えられた。このうち御籤で最も若い「おあじ」が人身御供に選ばれた。6人の神女は柏原<ref group="注釈">現在の静岡県富士市柏原・柏原新田</ref>まで引き返したが、おあじを置いてきたことを恥じ浮島沼に投身してしまう。一方おあじは'''富士浅間宮の神力により大蛇が鎮まった'''ため難を逃れ、6人の後を追う。しかし6人の死を知り、失意から投身する。それを知った見付<ref group="注釈">現在の静岡県富士市鈴川に比定される</ref>の老人がおあじを氏神として祀った。また6人が投身した柏原新田でも氏神として祀ったという<ref>富士市, 2018, p79-80</ref>。その社が[[六王子神社]]である。
[[文政]]3年([[1820年]])『駿河記』には、以下のようにある文政3年(1820年)『駿河記』には、以下のようにある<ref>『駿河記』巻二十四富士郡巻之一「柏原」</ref>。三股淵には大蛇が棲んでおり、毎年生贄を捧げていた。ある年下総国の6人の巫女が上京する道中、柏原の地で里人により捕縛される。巫女の下女であった阿字はこれが生贄に対する備えであることを知り嘆き、里人に暇を請い上京し朝廷へ報告する。朝廷より雛形を賜り祭祀を示された阿字は急いで戻り、三股淵に雛形を供え祭祀を行い、6人の巫女らは神楽を舞った。これ以後は生贄を取ることは止んだという。
[[文久]]元年([[1861年]])『駿河志料』には、以下のようにある文久元年(1861年)『駿河志料』には、以下のようにある<ref name="#1">『駿河志料』巻之五十二富士郡二「鈴川」</ref>。毎年里人が旅人の女子を捕え三股淵へ生贄に捧げていたが、あるとき巫女6人を捕えた。巫女の下女であった阿兒(あじ)は嘆き、京に上り教えを請い、教えの通り人形を供することで鎮めることに成功する。人々はおあじを祀り、また巫女6人についても柏原の地で祀ったという。
各史料で差異はみられるものの大筋は同じであり、旅人を三股淵の大蛇の生贄に捧げている点、それが女子である点、大蛇に対する供え(主におあじの力)により生贄が止んでいる点は共通している。また富士浅間の神力も強調されている{{Sfn|<ref>富士市|, 2018|p=80}}, p80</ref>
またこの伝承の特徴として、人身御供の代わりが人形(雛形)である点が指摘されるまたこの伝承の特徴として、人身御供の代わりが'''人形(雛形)'''である点が指摘される<ref> [[大和岩雄]]『鬼と天皇』97頁、白水社、1992</ref><ref> [[松前健]]『松前健著作集 第7巻 日本神話と海外』312頁、おうふう、1998</ref><ref> [[松前健]]『神々の系譜―日本神話の謎』106頁、吉川弘文館、2016</ref>。
== 神事 ==
[[ファイル:Fujizuka.jpg|thumb|250px|富士市鈴川の富士塚、富士大宮司らの参詣の地]]
[[慶安]]3年([[1650年]])の奥書を持つ「富士本宮年中祭礼次第」に浜下り神事として「'''あちかみ'''参詣、大宮司殿・庶子衆」とあり{{Sfn|浅間文書纂|1973|p=24}}、[[富士山本宮浅間大社]]の[[富士氏|富士大宮司]]および庶子らが浜下りの際に参詣していたとある。また「古来所伝祭式」に「大宮司・公文・案主富士丘二詣デ、正鎰取祓ヲ修ス。次に'''アヂ神'''に詣デ帰テ斎戒ス」とあり{{Sfn|浅間文書纂|1973|p=58}}、鈴川の富士丘(富士塚)に詣でた後に阿字神社に参詣していたことが記される{{Sfn|荻野|2006|p=4-5}}。

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