そのため、台湾から南太平洋に、豚と共に拡散した人々は、初期の稲作文化を含む、紀元前1000年以前の中国南部の神話・伝承も、共に台湾を始めとした南太平世に持っていったと思われるのである。
== 農耕の始め ==
古代中国では、農耕を人々に教えたのは神農という神だと言われている。伝説によると神農は、木材をつかって農具をつくり、土地を耕作して五穀の種をまき、農耕をすることを人々に伝えた。また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した、と言われている。神農は、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まってしまい、最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという<ref>袁珂著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 175-183頁</ref><ref>増田福太郎『台湾の宗教 -農村を中心とする宗教研究-』 養賢堂 1939年 40-41頁</ref><ref>[http://www.honzou.jp/04/pdf/28g/28g8.pdf 本草つうしん 第28号 2010年6月30日付] PDFファイル</ref>[四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、腸がちぎれて死んだともされる。
『淮南子』に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)。あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、飲用水の可否(医療)を教え、民衆に知識を広めた。まさにこのとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した」とある<ref>脩務訓|淮南子・脩務訓「古者、民茹草飲水、采樹木之實、食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害、於是神農乃始教民播種五穀、相土地宜、燥濕肥墝高下、嘗百草之滋味、水泉之甘苦、令民知所辟就。當此之時、一日而遇七十毒」</ref>。
== 扶桑と養蚕 ==