太陽と木と鳥1

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 太陽とは混沌と戦うものである。

 歴史的に見て、太陽と鳥を関連づけて考える思想は、世界の中でも紀元前5000年の中国揚子江下流域の河姆渡文化が最古だと思われる。しかし、文献に残る太陽鳥(山海経の扶桑と烏は、紀元前4世紀の記録であって、本来の最古の神話の姿をそのままとどめているとは言いがたい、と感じる。エジプト神話、メソポタミア神話といった古い時代の姿をとどめる神話と比較することで、本来存在した、一番古い中国の「太陽と木と鳥」の神話の姿を探ってみたい。

扶桑と太陽鳥

扶桑(ふそう)は、中国伝説で東方のはてにある巨木(扶木扶桑木扶桑樹とも)である。またその巨木の生えている土地を扶桑国という。

古くは『山海経』に見られるように、はるか東海上に立つ伝説上の巨木であり、そこから太陽が昇るとされていた。太陽や天地にまつわる巨木としては若木や建木などが共に記述として残されている。

古代、東洋の人々は、不老不死の仙人が棲むというユートピア「仙境=蓬萊山・崑崙山」にあこがれ、同時に、太陽が毎朝若々しく再生してくるという生命の樹「扶桑樹」にあやかろうとした。「蓬莱山」と「扶桑樹」は、古代の神仙思想が育んできた幻想である。海東のかなたには、亀の背に乗った「壺型の蓬莱山」が浮ぶ。海東の谷間には、太陽が昇る「巨大な扶桑樹」がそびえる。古代の人々は「蓬莱山に棲む仙人のように長生きし、扶桑樹に昇る太陽のように若返りたい」と強く願い、蓬莱山と扶桑樹への憧憬をつのらせてきたという。[1]

のち、『梁書』が出て以降は、東海上に実在する島国と考えられるようになった。実在の島国とされる場合、扶桑の木は特に巨木というわけではなく「その国では扶桑の木が多い」という話に代替されている。

山海経

『山海経[2]』によると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るという。

下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝


(下に湯谷があり、湯谷の上に扶桑があり、10の太陽が水浴びをする。黒歯国の北であり、大木は水中にあり、9の太陽は下の枝に、1の太陽が上の枝にある)

『山海経』海経第4巻 第9 海外東經[3]

大荒之中 有山名曰孽搖頵羝 上有扶木 柱三百里 其葉如芥 有谷曰温源谷 湯谷上有扶木 一日方至 一日方出 皆載於烏


(大荒(辺境)の中に孽搖頵羝(げつよういんてい)という山があり、山の上に扶木がある。高さは300里(130m)、その葉はカラシナに似る。温源谷という谷があり、湯谷の上に扶木がある。1つの太陽が来ると1つの太陽が出て行き、太陽はみな烏]を載せている)

|『山海経』海経巻9 第14 大荒東經[4]

烏が乗る10の太陽という話は、三足烏の神話と共通である。

三足烏

 
太陽に向かう2羽の鳥が描かれた象牙の容器。(浙江省博物館)
 
漢代の壁画。右が火烏(三足烏)。

三足烏(さんそくう、さんぞくう)は東アジア地域の神話や絵画などに見られる伝説の生き物である。この烏は太陽に棲んでいると信じられ、太陽の象徴であった[5]。最も古い考古学的遺品は紀元前5000年の中国揚子江下流域の河姆渡文化にさかのぼる。

太陽信仰そのものは揚子江下流域で紀元前8000年頃には行われていたと思われ、太陽紋の刻まれた彩色土器が上山遺跡群より発掘されている。上山文化は、人が平地に定住あるいは半定住生活を行い、稲を「作物」として利用した文化である。橋頭遺跡では、人工の環濠(かんごう)が発見された。酒の醸造が行われ、浙江省で最も古い墓と遺体2体も見つかっている。大規模な水稲耕作の開始により、人々の生活に余裕ができ、文化的、精神的な発展もみられたのではないだろうか。

河姆渡文化までは母系社会であるので、農耕の最古層の文化は母系社会集団だったといえる。

古代中国の文化圏で広まっていた陰陽五行説では偶数を陰、奇数を陽とする。このため3足は陽となり太陽と繋がりができるからだと言われている。

中国

三足烏(さんそくう、さんぞくう、サンズゥウー)は、中国神話に登場する烏で、太陽に棲むとされ[6](ただし他の神話もある)、太陽を象徴する。黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もある。日烏(にちう、リーウー)や火烏とも言い、月の兎の月兎と対比される。しばしば3本の足をもつとされるが2本の場合もある。また、金色という説もあり、金烏(きんう、ジンウー)とも呼ばれる。

太陽にいるのは烏ではなく金鶏(きんけい)であるとの神話もある。別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある。

なお三足烏の「金烏」の絵は、日本の1712年(正徳2年)刊の「和漢三才図会」の天の部の「日」の項にも認められる[7]

『淮南子[8]』に「昔、広々とした東海のほとりに扶桑の神樹があり、10羽の三足烏が住んでいた……」と見える。この10羽の3本足の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという。『淮南子』の巻七(精神訓)では、月日説話に「日中有踆烏 而月中有蟾蜍」の記述もあり、太陽と鳥の関連を示している。後の『春秋元命苞』に「陽数起於一、成於三、日中有踆烏」がみえ、太陽の中に鳥がいるという話は古いが三本足を有することについては後のことではないかとされる。

このような物語もある。大昔には10の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。しかし尭帝の御世に、10の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、9つの太陽に住む9羽の烏を射落とさせた。これ以降、太陽は現在のように1つになった(『楚辞』天問王逸注など)。

朝鮮

三足烏(삼족오 Samjogo サムジョゴ)は、高句麗(紀元前5世紀~7世紀)では火烏とも言われた。古墳壁画にも3本足の烏三足烏が描かれている。月に棲むとされた亀と対比された。

日本

日本では八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれ、古事記の神武東征において神武天皇を導く役割をしている。 八咫烏は『古事記』や『日本書紀』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされており、天日鷲神の別名である天加奈止美命(あめのかなとみ)の名称が金鵄(かなとび)に通じることから、天日鷲神、鴨建角身命と同一視される[9]。また賀茂氏の系図において鴨建角身命の別名を八咫烏鴨武角身命としている[10]

太陽と王権

殷(紀元前17世紀頃 - 紀元前1046年)の王位継承について、後年の亀甲獣骨文字の解読から、基本は非世襲で、必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。殷は氏族共同体の連合体であり、殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。

仮説によると、殷王室は10の王族(「甲」〜「癸」は氏族名と解釈)からなり、不規則ではあるが、原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、定期的に王を交替していたとする。それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、臨時の中継ぎの王を出したり、王妃を娶っていたと推測される。

上記と関連して、殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、山海経の伝える10個の太陽の神話(十日神話)は、殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、羿(ゲイ)により9個の太陽が射落される(射日神話)のは、一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。少なくとも紀元前17世紀には太陽信仰と王権が一体化していたことが分かる。太陽鳥が王権のありかを決定する、という考え方は古代日本の神武天皇の神話にも認められる。

羿と太陽

羿(げい、イ)は、中国神話に登場する人物。后羿(こうげい、ホウイー)、夷羿(いげい)とも呼ばれる。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(姮娥とも書かれる)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙によって殺される、悲劇的な英雄である。

羿の伝説は、『楚辞[11]』天問篇の注などに説かれている太陽を射落とした話(射日神話、大羿射日)が知られるほか、その後の時代の活躍を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、前者を「大羿」、後者を「夷羿」や「有窮の后羿」と称し分けることもある。その大羿は中国神話最大の英雄の一人である。

太陽を射る羿

天帝である帝夋(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を産んだ。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた[12]。ところが帝堯の時代に、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう天から神の一人である羿をその妻の嫦娥と共に、地上につかわした。帝夋は羿に紅色の弓(彤弓)と白羽の矢を与えた[13]。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[14]

羿の冒険

その後も羿は、各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの悪獣(窫窳・鑿歯・九嬰・大風・修蛇・封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた[15]

  • 窫窳(あつゆ):中原:竜頭、虎爪、牛身、馬脚の猛獣
  • 鑿歯(きくし):寿華の野(南方の沼沢地):獣頭人身の怪物か。口にはノミのような形をした長さ五,六尺の牙が一本生えている。
  • 九嬰:凶水[16]:おそらく頭が九つある水火の怪で、水を吹き出すことも、火を吐き出すこともできた。
→帰路、北方の寒禄山が崩壊し、土砂の中から精美な玉の弓懸(ゆがけ)を見付けた。
  • 大風(たいふう):青丘の沢:大鳳。大きな孔雀。性格が凶暴かつ慓悍で、人畜を傷つけた。その羽根を羽ばたかせるとかならず強風が生じたので、風の象徴とされた。
  • 修蛇:洞庭湖[17]:巴蛇、体が黒く、頭が青く、大きな象をまるごと呑み込み、三年かかって消化してからその骨を吐き出す。人がその骨を食べると心痛や腹痛が治るとされた。
  • 封豨(ほうき)桑林大きな猪。長い鋭い爪を持ち、牛より力のある怪獣。家畜や人をも食べた。

不老不死の薬

嫦娥(じょうが、こうが)は、古くは姮娥(こうが)と表記された。『淮南子外八篇』によると、もとは仙女で、后羿が狩りの最中に月桂樹の下で嫦娥と出会ったという。

自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり、羿と妻の嫦娥(じょうが)を神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。『淮南子』[18]覧冥訓によれば、羿は崑崙山の西に住む西王母を訪ね、不老不死の薬を2人分もらって帰るが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して月(広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。しかし、羿を裏切ったむくいで体は蟾蜍(ヒキガエル)[19]になってしまい、そのまま月で過ごすことになった(嫦娥奔月)[20][21]

なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある。別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えている。

逢蒙殺羿

その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、ついに羿を撲殺してしまった。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」(逢蒙殺羿[22])と言うようになった[23]

夷羿(夏の羿)

別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『春秋左氏伝』などにあるもので夏王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている[24]。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある[25]。白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。

后羿は子供の頃に親とともに山へ薬草を採取に出かけたが山中ではぐれてしまい、楚狐父(そこほ)(『帝王世紀』では吉甫)という狩人によって保護される。楚孤父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった呉賀(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。 太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。羿は、武羅・伯因・熊髠・尨圉などといった者と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、諸侯を支配下に置くこととなる。しかしその後の羿は、伯封を殺し、その母である玄妻を娶り[26][27]、寒浞(かんさく)という奸臣を重用し、武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、最後は玄妻と寒浞によって相王の8年に殺されてしまった。

その他の夷羿の妻

 羿は放浪中、非常に美しい洛水[28]の女神である雒嬪(らくひん)と出会って通じる。雒嬪は水神の河伯の妻であった。河伯は怒りを抑えることができず、白龍に化して川面を巡遊した。そのため、大きな洪水が起き、川は氾濫して多くの人々が亡くなった。羿は白龍に変身した河伯に矢を射て、左目に命中させた。河伯は天帝に訴え出たが、羿に咎めはなかった。

『楚辞』「天問」には「帝、夷羿を降して、孽(わざわい)を夏の民に革(あらた)め、胡(なん)ぞ夫(か)の河伯を射て、彼(か)の雒嬪を妻とせる(天帝は、夷羿を地上に下して、夏の民に災いをもたらしたのに、何故河伯を射させて、その妻の雒嬪を夷羿に与えたのだろうか。)」とある。

古代中国の戦国時代(紀元前475~221年)には、「河伯が妻を娶る」と称して、毎年、若い娘を川に流して人身御供とする習慣があった。

羿が射たものは何だったのか

 羿の神話は「射日神話」として有名である。特に東アジアでは、烏が太陽と関連付けられて、重要な鳥神あるいは霊鳥としての地位にあることは、朝鮮、日本の三足烏を見ても明らかである。しかし、河姆渡文化のレリーフを見れば明らかなように、2羽の鳥は太陽を支えてはいても、太陽そのものではない。日本神話でも、八咫烏は賀茂氏の祖神である鴨建角身命と同じもの、と言われているが、八咫烏が太陽神である天照大神と同じものである、とは言われていない。他にも、エジプト、メソポタミア、イラン・インドの神話を見ても、神話的な木に住まう鳥が太陽そのものである、という逸話はほとんどない。ということは、本来、「太陽信仰に関わる鳥」は「太陽そのものではなかった」のではないだろうか。河姆渡文化のレリーフもそのように見える。

 では、羿が射落として、その結果天帝の怒りを買った、といわれる「太陽」とはいったい何だったのだろうか。

 しかし、その考察に入る前に、河姆渡文化は母系の文化でもあったので、羿の妻・嫦娥の神話的役割について纏めてみたい。

嫦娥信仰の歴史的変遷と乞巧奠(七夕)

道教では、嫦娥を月神とみなし、「太陰星君」さらに「月宮黄華素曜元精聖后太陰元君」「月宮太陰皇君孝道明王」と呼び、中秋節に祀っている。

海南島などでは、8月15日(中秋節)の晩に少女たちが水をはった器の中に針を入れて嫦娥(月娘)に自分の運命の吉凶を示してもらう、という習俗があった。針がすっかり沈んでしまって少しも浮かばないと運命は凶であるという[29]

「針」とは裁縫や織物に関するアイテムであり、仙女であった嫦娥がいわゆる「織女」のような存在であったことを伺わせる。古代中国の世界樹とも言える扶桑、すなわち桑は絹とも関連する樹木である。

『西京雑記』には、前漢の采女が七月七日に七針に糸を通すという乞巧奠の風習が記されているが、織女については記されていない[30]

その後、南北朝時代の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈った。捧げ物の瓜の上に蜘蛛が糸をかければ望みがかなう印とされた、と書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(きこうでん)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝・梁代の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令広義』七月令にある逸文)という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている[31]

針を使って、持ち主である女性を占うところが、海南島の中秋節の祭祀と、乞巧奠(七夕)では共通している。針は織女の象徴ともいえる。海南島の祭りでは、針は水に沈められ、水(河伯)に対する人身御供を連想させる。とすると嫦娥にも「河伯に対する人身御供であった」ことを示唆する伝承がかつてはあったのかもしれない、と思う。とすれば、羿を中心とした神話を見るときに、嫦娥と雒嬪は「同じ女性」であった、という見方もできる。彼女は河伯に対する人身御供の織女で、そのために天から下ろされたのだが、羿はそれを助けて妻とした、あるいは、そのような祭祀を武力でもって禁止した先駆者であった、と言えなくはないだろうか。

しかし、神話の羿に相当する人物が実在していたのだとすれば、彼の生きた時代には、河伯に人身御供を捧げることが当たり前過ぎる時代であったので、羿の行為は天帝に対する不遜と考えられ、逆に高慢である、と非難されることになったのかもしれないと思う。

嫦娥の怒りと罰

「羿(英雄)の妻」として見た場合、本来、嫦娥は最初から羿の妻として存在していたのではなかったのではないか、と述べた。その理由の一つは、ギリシア神話のペルセウスとアンドロメダーに代表されるように、多くの「怪物退治」の民間伝承では結婚は怪物を退治した後、その結果起きるイベントだからである。また、もう一つの理由としては、「怪物退治」の神話的起源は、エジプト神話の太陽神ラーと混沌の蛇アペプとの戦いが少なくともその一形と思われるが、そこには「怪物退治の結果としての太陽神の結婚」というエピソードは出てこないということがある。ラーは日々の営みとして怪物退治を繰り返すに過ぎない。つまり、「怪物退治」の物語と「英雄や英雄神の結婚」という物語は本来別々の神話であり、時代が下るにつれて、一つに纏められ、世界中に伝播したのではないか、と思われるということである。本来の神話の上では、羿と嫦娥は何のつながりもない存在だったのではないか、とすら思える。

ともかく、羿神話では、嫦娥は夫と共に地上に降り立った。彼女が西王母に仕える女仙であり、織女であったとすれば、その姿は西王母に仕える「鳥」だったかもしれないと思う。多くの「天人女房」の民間伝承でも女性は鳥の姿で地上に降り立つ。時にその姿が植物と重ねられて、天女が世界樹の一部のようにみえることもある。

その後、嫦娥は何らかの不満を覚えて失踪する。

また、何らかの原因で罰を受ける。嫦娥の月への昇天は、「罰」とすれば死を暗喩しているようにも見えるが、彼女が鳥女神であったとすれば、空を飛ぶことは当たり前の姿であるともいえる。よって、「昇天」の意味は神話からははっきりしないが、何らかの「罰」を受けていることは明確とされている。

よって、神話的な嫦娥とは

  • 地上に降り立つ女神
  • (潜在的には、英雄に救われる女神)
  • 怒りや不満で失踪する女神
  • 罰を受ける女神

の3つあるいは4つから成り立っている複合的な女神といえる。それぞれについて、本来の姿を探っていくことが、本来の西王母信仰の姿を探ることにもつながるのではないだろうか。

女神の不満と出奔(竹取説話と奈具神社由来譚)

嫦娥の物語と、日本の伝承との比較を行ってみたい。日本は稲作の国であり、稲作の起源は当然長江下流域にあるので、稲作に関する神話も、そのまま伝播している可能性があるからである。

1.竹取説話について。今昔物語集 巻第31、第33「竹取の翁女児を見付けて養ふ語」

「竹取物語」の類話である。「竹取物語」が本話の直接の出典ではない、というのが現在の通説とのこと。

粗筋は、

竹取の翁が竹藪で女児を見付けて、育てたところ、三ヶ月で成長し、成人となった。翁が竹を取りに行くと、今度は竹の中に黄金を見付けた。そこで翁は大金持ちになった。女児は成長すると非常に美しくなり求婚者が殺到した。娘は「空に鳴る雷」「優曇華の花」「打たぬのに鳴る鼓」を求婚者達に求めたが、誰も持ってくることはできなかった。そのうち、評判を聞きつけた天皇が直接求婚に来て、女の美しさを素晴らしいと思った。天皇は女に求婚したが、女は「私は人ではありません。空から迎えが来ます。」と述べて、迎えと一緒に天に帰ってしまった。

というものである。

創作物である「竹取物語」では女主人公は竹から現れて、成長した後、「罪が許されて」、「月の都」に帰ることになっており、別れの手向けに、天皇に「不死の薬」を贈っている。すなわち、「罰を受ける女神」である点と、「不死の霊薬」の地上における持ち主である点について、「竹取物語」の方が、民間伝承よりも嫦娥の神話と類似点が多い。竹取説話の方は、「罰を受ける女神」である点は明確でない。求婚されることが不満だったのか、女主人公は唐突に天に帰ってしまう。結婚するのが嫌なくらいだから、当然女主人公は英雄とも誰とも結婚しない。

本来の「竹取説話」は、天から降りてきた「小さ子」的な女神に親切にしてくれる翁夫妻に対する報恩譚に、女主人公が直接求婚者達に難題を出す「難題婿」の要素と、不満な女神の失踪譚の要素を組み込んだ物語だろうと思われる。求婚は不満の原因だったかもしれないが、失踪(天への帰還)の原因とまでいえるかどうかは定かではない。


2.奈具神社由来譚について。丹後国風土記によると「ここに来りてわが心奈具志久(なぐしく)なれり」とあり、奈具神社の由来はこの奈具志久(おだやかに)という言葉による。

昔、丹波の郡比治の真奈井に天下った天女が、和奈佐の老夫婦に懇願されて比治の里にとどまり、万病に効くという酒を醸して、老夫婦は莫大な富を得ました。しかし、悪念を抱いた老夫婦はやがて天女に、 汝は吾が子ではないと追い出してしまいました。 天の原ふりさけみれば霞立ち 家路まどいて行方しらずも と詠い、比治の里を退き村々を遍歴の果てに、舟木の里の奈具の村にやってきました。 そして「此処にして我が心なぐしく成りぬ」(わたしの心は安らかになりました)と云って、この村を安住の地としました。 此処で終焉を迎えた天女は村人たちによって、豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として祀られました。 これが竹野郡の奈具の社です。(境内案内板「|延喜式内奈具神社の祭神について」より)

こちらは、女主人公の不満というよりも、豊穣をもたらしたにも関わらず、女主人公の方が不満を持たれて、追い出されてしまう、という物語である。「罰を受ける女神」という要素が入り込んでしまってこのように変形していまったのかもしれないと思う。ここでの酒は「不死の霊薬」とほぼ同様の扱いを受けている。

まとめ

酒というのは、日本では米が姿を変えたものであるので、稲作とは関連がある。米酒の醸造の起源も揚子江下流域の初期の稲作文化まで遡る。稲作文化と関連がある物語であり、かつては養蚕と同様、酒の醸造も天から伝わったもの、という神話があったのかもしれないと思う。「酒=不死の霊薬」とすれば、古代中国では

西王母のものであった「不死の霊薬(酒)」を、西王母の使いである鳥仙女が地上に降り立って、人々に作り方を教えた。

という神話がそもそもあったのかもしれないと思う。インド神話では神々の元から不死の霊薬を盗み出すのは、鳥神ガルダである。神々の霊薬とされるアムリタは結局神々の元に返されるが、経緯は不明だが地上には地上で、人間用の霊薬であるソーマがもたらされることになっている。とすれば、この「不死の霊薬(酒)の作り方を人類に教えた鳥仙女」こそが、嫦娥の原型だったのではないか、と思われる。それは、元々彼女の持ち物だったのである。そして、酒作りの由来譚が日本に伝播する前に、すでに「罰を受ける女神」の要素が彼女の物語の中に入り込むことになったのだと思われる。

扶桑と養蚕

桑といえば、蚕の餌であって、養蚕とは切っても切れない。

絹織物は、中国で創出されたもので、絹を生産している形跡が新石器時代遺跡(西陰村遺跡、河姆渡遺跡など)から幾度も発見されている[32]。そのため、太陽信仰の文化と養蚕は深いつながりがあるのではないだろうか。刺繍が施されるようになった最も早期の事例は、中国にある戦国時代(紀元前3世紀~5世紀)の墓から発見されたものである。

養蚕の起源は中国大陸にあり、浙江省の遺跡からは紀元前2750年頃(推定)の平絹片、絹帯、絹縄などが出土している[33]。殷時代や周時代の遺跡からも絹製品は発見されていることから継続的に養蚕が行われていたものと考えられている。系統学的な解析では、カイコは約5000年前までにクワコ(Bombyx mandarina)から家畜化されたと考えられている[34]

西王母と桑

東周時代に書かれたとされる『山海経』の大荒西経によると、西王母は「西王母の山」または「玉山」と呼ばれる山を擁する崑崙の丘に住んでおり、西山経には

「人のすがたで豹の尾、虎の玉姿(下半身が虎体)、よく唸る。蓬髻長髪に玉勝(宝玉の頭飾)を戴く。彼女は天の厲と五残(疫病と五種類の刑罰)を司る。」

という半[半神の姿で描写されている[35]。また、海内北経には

「西王母は几(机)によりかかり、勝を戴き、杖をつく」

とあり、基本的には人間に近い存在として描写されている[36]

また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。

敦煌写本(11世紀)には「王母が養蚕の方をお授け下さり」とあり、西王母が養蚕の方法を教えた、とされている。小説的な作品ではあるが、「漢武別国洞冥記(2世紀)」に「濛鴻の沢(神話的な地名、濛鴻はカオスを意味する)にて、王母が白海の岸辺で桑を摘んでいた」とある。を摘むのは紡織の作業の開始を示す儀礼でもあった。漢代には皇室の女性達が、桑摘みなど儀礼的な養蚕を行う際には、髪に「華勝」という西王母の髪飾りをつけたという。

「山海経」には

また東へ五十五里ゆくと、宣山と呼ばれる山がある。その山からは、淪水が流れ出す。その川は東南に流れて視水に注ぐ。その中には蛟がたくさんいる。その川のほとりには桑の木が生えている。その幹の太さは五十尺、枝が重なりあって四方にのび、葉の大きさは一尺あまりもある。赤い木目があり、黄色い花がつき、青い萼がある。これを帝女の桑と呼ぶ。

とある。帝女は西王母とされ、織女は天帝の孫と言われている。西王母は女仙を支配する女神でもある。西王母は、女仙の先頭に立って、自ら桑摘み、養蚕、紡織を行う女神でもあったのだろう。桑は西王母とは切っても切れない関係にあったのである。

漢代の図像には、世界樹の頂上に座す西王母がみられ、東王父が出現する以前は、西王母が世界樹である桑の木の頂上に座す、と考えられていたようである。母系社会には「父」というものは存在しないので、これが古い時代の西王母の図像であったのではないか、と推察する。

また、日本神話との比較から述べると、日本神話では織女達を統括し、支配するのは太陽神である天照大神である。とすると、桑と養蚕を支配する西王母とは、本来、太陽女神であったとはいえないだろうか。河姆渡文化のレリーフでいえば、「鳥が運んでいる太陽」そのものが西王母の原型だったのだと考える。しかし、西王母は時代が下るにつれて、中国では「太陽女神」としての性質が薄れていくので、取り残された鳥の従者達に「太陽神」としての性質が移されたのではないか、と個人的には思う。

ともかく、「桑」を、西王母を頂上に抱く「世界樹」として考えた時、その根元は水の中や、あるいは混沌の中にあり、それらの中には「蛟がいる」と考えられていたのではないだろうか。メソポタミア神話、イラン神話等でも、「世界樹」の根元には蛇が巣くうことが多い。その起源は、少なくとも古代中国の西王母と桑の木にまで遡ると考える。水の中の蛇、とは当然いわゆる「河伯」でもあっただろう。世界樹の根元に巣くうのは、人身御供の乙女を妻として求める蛇の河伯だったといえる。

参考文献

  • Wikipedia:扶桑
  • Wikipedia:三足烏
  • Wikipedia:八咫烏
  • Wikipedia:
  • Wikipedia:羿
  • Wikipedia:嫦娥
  • Wikipedia:七夕
  • Wikipedia:竹取物語
  • Wikipedia:奈具神社
  • Wikipedia:養蚕業
  • 『中国の神話伝説』上、袁珂 著、鈴木博 訳、青土社、1993年、295-313p
  • 『西王母と七夕伝承』、小南一郎 著、平凡社、1991年、133-136p
  • 「日本古典文学全集 今昔物語集(4)」、馬淵和夫他校注・訳、小学館、631-635p

関連リンク

参照

  1. 岡本健一, 『蓬莱山と扶桑樹』思文閣出版、2008年。
  2. 前4世紀 - 3世紀頃
  3. 海外東經, 郭璞序
  4. 大荒東經, 郭璞序
  5. The Animal in Far Eastern Art and Especially in the Art of the Japanese, Volker, T., Brill, 1975, page=39
  6. 『淮南]』精神訓「日中有踆烏」
  7. 寺島良安『倭漢三才圖會』(復刻版)吉川弘文館、1906年(明治39年),3頁
  8. 前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書
  9. 宝賀寿男「神武天皇、実在の可能性」『「神武天皇」伝承の真実を検証する⑦』、2017年。
  10. 宝賀寿男『古代氏族の研究⑬ 天皇氏族 天孫族の来た道』青垣出版、2018年。
  11. 2世紀に完成
  12. 袁珂著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 289-296頁
  13. 『山海経(前4世紀 - 3世紀頃)』広注 巻十八「帝夋賜羿彤弓素矰」郭璞云:「彤弓、朱弓。矰、矢名、以白羽羽之。外伝:『白羽之矰、望之如荼』也」
  14. 松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 15頁
  15. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 298-302頁
  16. 中国北方にあるとされた川
  17. 湖南省北東部にある淡水湖。中国の淡水湖としては鄱陽湖に次いで2番目に大きい。
  18. 紀元前2世紀
  19. 蟾蜍(せんじょ)あるいは月中蟾蜍と書かれる。蟾蜍は漢語でヒキガエルを意味する。仙女(せんじょ、これもこのように発音される)や月の兎のように、月面に目視される模様からの発想であるとも考えられている。
  20. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 314-320頁
  21. 松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 17頁
  22. 『孟子』に「逢蒙殺羿、羿也有過」という文がある。
  23. 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁
  24. 市村瓚次郎 『東洋史統』1巻 冨山房、1940年、50頁
  25. 内藤虎次郎 『支那上古史』 弘文堂書籍、1944年、66-67頁
  26. 『春秋左氏伝』昭公二十八年「昔有仍氏生女、黰黒而甚美、光可以鑑。名曰玄妻。楽正后夔取之、生伯封。実有豕心、貪惏無饜、忿纇無期、謂之封豕。有窮后羿滅之、夔是以不祀」
  27. 『楚辞』天問「浞娶純狐、眩妻爰謀、何羿之射革、而交呑揆之」
  28. 河南省西部を流れる黄河の支流
  29. 香坂順一、『南支那民俗誌 海南島篇』 台湾総督府外事部 1944年 74頁
  30. 『西京雑記』巻1「漢彩女常以七月七日穿七孔針於開襟楼、俱以習之。」
  31. 『小説』の原典は失われているが、明代の馮應京(ひょう おうきょう)が万暦年間に著した『月令広義』にこれが引用されている(「七月令」・「牛郎織女」項 [1])。
  32. 学術月報, 第 407~411 巻 文部省大学学術局, 1979 367ページ
  33. 亀山勝『安曇族と徐福 弥生時代を創りあげた人たち』龍鳳書房、2009年、84頁。
  34. =Sun, Wei, Yu, HongSong, Shen, YiHong, Banno, Yutaka, Xiang, ZhongHuai, Zhang, Ze, 2012-06, Phylogeny and evolutionary history of the silkworm、url=http://link.springer.com/10.1007/s11427-012-4334-7、Science China Life Sciences, volume=55, 6, pages=483–496, en, 10.1007/s11427-012-4334-7, 1674-7305
  35. 徐, 1998, pp=164-222
  36. |徐, 1998, pp=164-178