牛郎織女

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概要[編集]

牽牛織女の伝説は後漢以降の文献に見える。『淮南子』俶真訓に「織女」の名が見え、班固『西都賦』には「左牽牛而右織女、似雲漢之無涯」という。

唐末の韓鄂『歳華紀麗』に引く後漢末の応劭『風俗通』逸文には「織女は七夕の日にカササギを橋として河を渡らなければならない」といっている[私注 1]

明の馮応京著『月令広義・七月令』の引く梁の殷芸『小説』には更に詳しく記されており、河東に住む天帝の娘である織女(織姫)が河西の牽牛郎(牛飼い、彦星)に嫁ぐことを許したが、嫁いだ後に機織りをやめたことで天帝の怒りを買い、河東に戻ることを強要、1年に1度だけ会うことを許した、と記されている。

現代まで伝承された物語[編集]

『牛郎織女』の物語の中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。

天の川の東岸に暮らした織女は、人と神の恋情を禁じた天の女帝・王母娘娘(おうぼにゃんにゃん)の外孫女。朝から晩まで「天梭」を使い、「天衣」と呼ばれた雲錦を織っていた。ある日、姉妹たち(七仙女と同一視された)と共に人間界の河(碧蓮池)の辺に降り来たりて水浴をした。人間界の青年である牽牛郎が飼い牛(金牛星の化身)の助言によって、河の辺で水浴びをしている天女の紫色の羽衣(あるいは桃色の羽衣)を盗んだ(一説には織女を見かけて一目惚れした牽牛郎は、彼女の羽衣を盗んで隠された)。羽衣を失った織女が天界へ帰れないので地上に残って、最終的には牽牛郎の求婚を受け入れ、一人の男の子と一人の女の子を生んで、男が耕し、女が機織りをする幸福な生活を送っていた。

しかし、幸福な生活は長く続かず、天上から消え失せた織女を探していた王母娘娘は、織女と人間の男の結婚を知って怒り、「天兵」(天にある軍隊)を遣わして、天界の戒律に違反した織女を捕らえて天に連れ帰る。牽牛郎が天に昇る道もなく、彼の飼い牛より「私が死んだ後、私の皮で靴を作って、その靴を履けば天界に上ることができる」だと言われている。その後、飼い牛が死んだ。牽牛郎は飼い牛の言うとおりにして、牛の皮で作った靴を履き、子供たちを連れて天界に上り織女を探している。これに怒った王母娘娘は、牽牛郎が自らの外孫婿であることを認めなかった。容姿を隠した七人の天女のうちで織女を選んで会うことを許した条件を出した。牽牛郎が王母娘娘からの非難に困らせた。しかし子供たちは母親を認めた。王母娘娘は、織女を再び人間界に戻すことに反対し、織女を天牢に閉じ込めるよう部下に命じた。織女を追いかけていた牽牛郎が、織女のところに到着しようとした際、残忍な王母娘娘は突然頭から金簪を抜いて一振りすると、天の川で輝く大波を引き起こし、牽牛郎と織女は両岸に分け隔てられている。のちに王母娘娘によって毎年七月七日だけカササギが橋を架けて、牽牛郎に橋を渡って織女に会うことが許されていた。それは、古代封建制における恋愛と結婚の不自由を反映している[1]

「古詩十九首」其十「迢迢牽牛星」[編集]

迢迢牽牛星
原文 書き下し文 通釈
迢迢牽牛星 迢迢たる牽牛の星 遙かなる牽牛の星
皎皎河漢女 皎皎たる河漢の女 白く輝く天の河の女
繊繊擢素手 繊繊として 素手を擢げ ほっそりと白い手をあげ
扎扎弄機杼 扎扎として 機杼を弄ぶ サッサッと機織りの杼を操る
終日不成章 終日 章を成さず 一日かけても模様は織りあがらず
泣涕零如雨 泣涕 零ちて雨の如し 涙は雨のごとく流れ落ちる
河漢清且浅 河漢は清くかつ浅し 天の河は清らかでしかも浅い
相去復幾許 相い去ること復た幾許ぞ 二人の距離もいったいどれほどのものか
盈盈一水間 盈盈たる 一水の間あり 端麗な織女は一筋の河に隔てられ
脈脈不得語 脈脈として語るを得ず 言葉を交わせずじっと見つめているばかり

私的解説[編集]

「動物番」的説話である点[編集]

主人公は「牛飼い」であり、妻を追って天界に行くために牛が助け手となっている。動物を助けて妻を得る展開は、日本の「因幡の白兎」に似る。

「難題婿」的説話である点[編集]

人間である主人公は天仙(織女)である妻よりも身分が低く、妻の親族に認めて貰うために難題に挑まなければならない。この点は典型的な形とは違うが、西欧の「動物番」に似るように思う。西欧の「動物番」物語群と起源が同じな物語であることが示唆される。

啓思想的観点から[編集]

馬頭娘との関連性について[編集]

  • 啓思想5型:牛郎織女では主人公は動物番だが、馬頭娘では主人公は馬そのものになっている。動物番から動物そのものに変更されているといえる。
  • 啓思想1-1型:主人公の馬が、女主人公を殺す話に変更されている。女主人公は主人公に殺され、変換される妻としての生贄として表現され、説話的な地位は馬よりも低下している、といえる。よって女神と男神の地位が入れ替えられている、といえる。馬頭娘では「難題婿」の要素はほとんど消えているが、日本の「望月の駒」では、人間の女性を妻に求める馬に難題が課されており、「難題婿」の要素が残されている。
  • 女神の地位は、古い文化の思想ほど高く現されるので、説話としては牛郎織女の方が馬頭娘よりも起源が古く、かつ、この2つは起源を同じくする「類話」といえる。啓思想1-1型の変換によって、女主人公には「生贄にされて別の物に変換される」という性質が加えられている。言い換えれば、馬神には人間の女性を別の物に変換する霊力がある。そのために「啓的シャーマン」は馬神に女性を生贄に捧げなければならない、となる。馬頭娘の場合「啓的シャーマン」は「娘の父親」ということになる。

よって、人身御供を求める動物神(炎帝型神)を殺す「娘の父親」は「黄帝的神」といえるが、その一方で娘を生贄に捧げて蚕の豊穣を得る存在でもあり、その点は「炎帝的神」といえる。ここに啓思想5-1型の黄炎混合が見られる。こうすると、いかにも「黄帝が人身御供を行う人」であるかのような印象を受ける。そのように印象操作を行いたい啓型神といえる人々にとっては非常に都合の良い変換といえると考える。

関連項目[編集]

七夕説話[編集]

派生説話[編集]

用語[編集]

外部リンク[編集]

私的注釈[編集]

  1. カササギには境界神としての性質があったようである。

参照[編集]

  1. 『文学』第20巻、岩波書店、1952年、第86頁。