馬頭娘
蚕馬(さんば)とは、中国の伝説の1つで、馬の皮と融合した少女が蚕に変身してこの世に絹をもたらしたとされる伝説。蚕女(さんじょ)・馬頭娘(ばとうじょう)の別名があり、日本の「おしらさま」伝説のモデルになったともされる。
前史
中国では古くから絹や蚕にまつわる伝説や説話が存在していた。戦国時代に荀況が記した『荀子』(賦篇)には、蚕の身体は柔軟で頭は馬に似ていると記されている。前漢の書物である『山海経』(海外北経)には、欧糸の野(おうしのの)という土地があり、そこでは少女が跪き木につかまって糸を欧(吐)いていると記されている。更に古くから絹の産地として知られていた蜀(現在の四川省)では、古代の(古)蜀の王である蚕叢が蚕の飼い方を人々に教えたとする伝説など様々な伝説があったとされている。こうした伝説・説話が結びついた事で誕生したのが「蚕馬(蚕女・馬頭娘)」の伝説であったと考えられている。
『捜神記』
蚕馬のもっとも古い形態であるとされるのは、東晋の干宝が記した『捜神記』(巻14)の「女、蚕と化す」である。
昔、ある家の父親が戦争に駆り出され、家には娘と雄馬だけが残された。娘は父親恋しさの余り、雄馬に冗談半分で「もし、御父様を連れて帰ってきてくれたら、あなたのお嫁さんになるわ」と言ったところ、雄馬はすぐさま父親を連れて家に戻ってきた。ところが、娘を目にした時の雄馬の様子がおかしいので父親が娘に事情を問いただすと、娘が一部始終を打ち明けた。これを知った父親は激怒して弩で雄馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その後、娘が雄馬の皮の側で戯れていると、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。数日後、娘が発見された時には娘は馬の皮と一つになって大木の枝の間で蚕に変身して糸を吐いていた。そのため、大木は「喪」と同音(ソウ)である「桑」と名付けられたと言う。
『太平広記』(『原化伝拾遺』)
『捜神記』とはやや異なる内容の蚕馬伝説を伝えているのは、北宋の李昉が勅命によって編纂した『太平広記』(巻479)の「蚕女」である。ただし、『太平広記』は古今の書物からの引用の集成であり、「蚕女」も元は『原化伝拾遺』という書物から引用されたものである。
高辛王の時代、蜀の地には君王がおらず、一族がまとまって暮らして他の一族と争っていた。ある娘の父親もその戦いで敵の捕虜となって一年以上経過し、娘は父親の事を考えると居た堪れなくなった。娘の母親は一族の男達に対して、「もし、夫を助けだしくれたら、その者に娘を嫁がせる」と述べた。だが、それに応える者はいなかった。ところが、その話を聞いていた父親の乗馬が手綱を振りほどいて家を飛び出すと、数日後に父親を連れて戻ってきた。母親は驚いて約束の件を父親に打ち明けると、父親は「どうして人間を獣類に嫁がせる事が出来よう」と述べたが、それを聞いた馬が暴れ出したため、父親は激怒して弓で馬を射殺して皮を剥いで晒しものにした。その数日後、娘が馬の皮の側を通った時、馬の皮が不意に飛び上がって娘に巻き付いて家から飛び出していった。10日後に皮は娘ごと桑の木に落ち付いて娘の姿は蚕に変化して糸を吐いてこの世に絹をもたらした。これによって娘は蚕女と呼ばれるようになるが、両親はとても悲しんだ。ところが、突然天から娘が例の馬を御しながら降臨を果たし、太上が自分を仙嬪にして天上で長生させてくれることになったことを伝えて両親を慰めたと言う。
四川における「蚕女(馬頭娘)」信仰
『太平広記』が引用した『原化伝拾遺』には続いて、蚕女の遺跡は広漢に存在し、什邡・綿竹・徳陽の人々が毎年宮観にある少女の塑像に馬の皮を着せて「馬頭娘」と呼び、桑や蚕を供えて祈る儀式があったという。また、徳陽には蚕女の廟や墓が伝わったとされているが、清の時代に洪水の影響で荒廃したと、同治13年(1874年)編纂の『徳陽県志』は伝えている。
おしら様について
おしら様(おしらさま、お白様、オシラ様、オシラサマとも)は、日本の東北地方で信仰されている家の神であり、一般には蚕の神、農業の神、馬の神とされる[1][2]。茨城県などでも伝承されるが、特に青森県・岩手県で濃厚にのこり[注釈 1]、宮城県北部にも密に分布する[3]。「オシンメ様」「オシンメイ様」(福島県)、「オコナイ様」(山形県)などの異称があり、他にオシラガミ、オシラホトケ、カノキジンジョウ(桑の木人形)とも称される。
習俗
ご神体
神体は、多くは桑の木で作った1尺(30センチメートル)程度の棒の先に男女の顔や馬の顔を書いたり彫ったりしたものに、布きれで作った衣を多数重ねて着せたものである。貫頭衣のかたちをしたものと布を頭部からかぶせた包頭型とがある[3]。普段は住宅の神棚や床の間に祀られていることが多い[1][2]。記年銘のある最古のおしら様は、岩手県九戸郡種市町(現洋野町)に所在する大永5年(1525年)のもので、ついで岩手県下閉伊郡新里村および同郡川井村(いずれも現宮古市)の天正2年(1574年)のものが古い[4]。神体は、男と女、馬と娘、馬と男など2体1対で祀られることが多い[4]。
命日
おしら様の祭日を「命日(めいにち)」と言い、旧暦1月・3月16日 (旧暦)・9月16日 (旧暦)に行われる。命日には、神棚などからおしら様を出して神饌を供え、新しい衣を重ね着させる(これを「オセンダク」という)。この日は、本家の老婆が養蚕の由来を伝える祭文(おしら祭文)を唱えたり、少女がおしら様の神体を背負って遊ばせたりするので、かつては同族的な系譜を背景とする女性集団によって祀られていたとも考えられる[3]。盲目の巫女であるイタコが参加することも多く、その場合、イタコがおしら様に向かって神寄せの経文を唱え、おしら様を手に持って祭文を唱えながら踊らせる。おしら様に限っては祭ることを「遊ばせる」といい、このような行事を「オシラアソバセ」「オシラ遊び」「オシラホロキ」と呼ばれる[2][3]。また、青森県弘前市坂元の久渡寺では「大白羅講」が5月15日に行われる。
おしら様の2体の人形をつかって遊ばせる際のおしら祭文としては、「きまん(金満)長者物語」、「満能長者物語」、「せんだん栗毛」、「岩木山一代記」などがあり、坂上田村麻呂伝承の猿賀神社の由来を同時に語るとも伝えられる[5]。イタコが参与する場合は、このような祭文を語りながら、おしら様一対を両手にとって打ち振り、憑依したような状態になって託宣をおこなうことが多い[3]。
おしら様の信仰には多数の禁忌がある。例えば、おしら様は二足四足の動物の肉や卵を嫌うとされ、これを供えてしまうと大病を患うとか祟りで顔が曲がるという。家人の食肉により祟りで顔が曲がるともいわれる[2][4]。また、一度拝むとずっと拝まなければならないといわれ、拝むのをやめたり、祀り方が粗末だと家族に祟りがあるともいわれている[4]。
伝承
おしら様は、女の病の治癒を祈る神、目の神、子の神[注釈 2]としてのほか、農耕神として田植え、草取り、穀物の刈り入れなどに助力するともいう。また『遠野物語拾遺』には、かつては狩人が狩猟の際、どちらの山に行けばいいかを知るため、おしら様の神体を両手に持ち廻し、その馬面の向いた方角へ行く風習があったため、おしら様は「お知らせ様」であろう、とある[2]。地震、火事などの予知力もあり、『遠野物語拾拾遺』では、おしら様を鉤仏(かぎぼとけ)と称し、正月16日の「おしら遊び」の日に子供たちが1年間の吉凶善悪の神意を問うたという[2]。この起源を中国の『捜神記』(晋代干宝撰)、『神女伝』(唐代)に求める説がある(「蚕女」)。おしら様信仰誕生の背景に山神信仰や、養蚕作業、生活の糧の馬に対する信仰その他が混ざり、原初的な多様な性格を有する神として成立したものとする見方もある[5]。伊勢地方の天白神、または中国神話の「蚕馬」を原型とする見方もある。
由来譚
馬娘婚姻型
東北地方には、おしら様の成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、すがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、おしら様となったのだという[2][6]。
『聴耳草紙』にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、臼の中の蚕虫を桑の葉で飼うことを教え、絹糸を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている[5]。
盲人竜蛇退治型・津軽の口承
かつて盲人が峠の空家に泊り、寂しさを紛らわすために歌を歌っていると、歌を所望する女の声が聞こえたので、何曲か歌ってやった。夜明けの頃、女の声は自分を「たこ」と名乗り、自分のことを話せば命はないと戒めた。
里に降りた盲人が、つい村人に昨晩のことを話すと、そのまま死んでしまった。そこに「たこ」が現れ、村人たちに対しても、自分のことを他言した者は死ぬ上に村は沼に沈むと言った。そこで村人たちが峠の周囲を鉄柵で覆うと「たこ」は峠に帰れなくなり、そのまま死んでしまい、その正体はヘビであった。村人たちは「たこ」と盲人を神として祀り、これが後のおしら様だという[7]。
私的解説
盲人竜蛇退治型は「盲人竜蛇退治譚」に蚕起源説話が加えられたものではないだろうか。群馬県の咲前神社境内社の絹笠神社には『白いヘビを拝んで借りて帰ると「蚕が当たる」』という信仰があり、地域によっては白い蛇が蚕神である、という伝承もあるようである。蚕神は蛇神である、という概念、馬頭娘的に女性が死んで蚕が発生した、という概念が加味されて、地域の地主神(蛇神)が亡くなって蚕となった(蚕が発生した)、という話になったのではないだろうか。この場合、盲人に須佐之男・月夜見、蛇女神に大宜都比売、保食神の姿が投影されているといえよう。蚕起源説話は殺す者も、殺される者も死に至ることが特徴といえる。そして夫婦のようにも見なされ、「蚕神」として祀られているようである。殺す側の者も身分の低い神であることが示唆される。婚姻に関して、男女の神とも死に至る(罰を受ける)という筋書きは七夕説話にも通じるものがあると感じる。「盲人竜蛇退治型」と「記紀神話型」は、物語の中に明らかな結婚(男女の関係)は出てこないが、男女が一晩歌を交わしたり、男性が女性の家で食事を出される、という点は、古代では「男女の仲(関係)」と見なされる行為であり、事実上は婚姻譚といえると考える。「馬娘婚姻型」と「盲人竜蛇退治型」では、上位の女神の存在は明確でないが、記紀神話では「殺す者」に罰を与える天照大神が登場する。「盲人竜蛇退治型」では蛇神が盲人を殺すので、蛇神の中には「上位の女神」の性質も含まれており、蛇神は天照大神と馬頭娘の中間的な存在であることが分かる。(ただし、村人には殺されてしまう存在でもあるため、社会の中での蛇神の地位は「上位」と「下位」の矛盾した要素が含まれているように思う。
話型 | 殺す者(トゥワレorアメタ) | 殺される者 | 婚姻形態有無 | 殺す者の死の有無 | 上位の女神 |
---|---|---|---|---|---|
馬娘婚姻型 | 馬 | 娘(ラビエor(ハイヌウェレ)) | ○ | ○ | ×(馬を殺すのは父親) |
盲人竜蛇退治型 | 盲人(村人) | 蛇神(ラビエ) | △(事実婚) | ○ | ×(盲人は蛇神に殺される) |
記紀神話型 | 須佐之男or月夜見 | 大宜津比売or保食神(ラビエ) | △(事実婚) | △(罰有り) | 天照大神(サテネ) |
図像
岩手県遠野市の観光施設「伝承園」の御蚕神堂(おしらどう)には千体のおしら様が展示されている[8]。
宮城県の東北学院大学博物館にはオガミサマに信仰された大乗寺に収められていたおしら様が所蔵されている[9]。
おしら様信仰の図像資料としては、網野善彦・小沢昭一・宮田登・大隅和雄・服部幸雄・山路興造編集『大系 日本歴史と芸能 第11巻/形代・傀儡・人形』(平凡社ビデオブック、1991年)が貴重な映像を多く収めており、青森県弘前市久渡寺の「オシラ講」、岩手県宮古市堀内の「オシラアソバセ」のようすが収録されている。
その他馬娘婚姻譚
望月の駒
長野県佐久地方の民話。馬が姫を好きになったため、馬に難題を吹きかけて成功すれば、姫を嫁にやる、と約束する。難題が成功しないように細工がなされ、馬は死に、姫は出家してしまう。蚕の起源譚は伴わない。
馬娘婚姻譚の文献
リンク
参考文献
注釈
参照
- ↑ 1.0 1.1 柳田國男, 遠野物語, 1910, 聚綪堂, page14
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 柳田國男, 遠野物語, 1935, 増補版, 郷土研究社, pages179-188, 遠野物語拾遺
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 * 萩原秀三郎「おしらさま」小学館編『日本大百科全書』(スーパーニッポニカProfessional Win版)小学館、2004年2月。ISBN 4099067459
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 長谷川(1999)pp.262-263
- ↑ 5.0 5.1 5.2 倉田隆延, 吉成勇, 日本「神話・伝説」総覧, 1993, 新人物往来社, 歴史読本特別増刊 事典シリーズ, isbn:978-4-404-02011-6, pages314-315, オシラ様伝説(馬娘婚姻譚)
- ↑ 遠野物語, pages54-59
- ↑ 内田邦彦, 池田彌三郎他, 日本民俗誌大系, 1974, 角川書店, 第9巻, isbn:978-4-04-530309-8, pages.428-429, 津軽口碑集
- ↑ 2008-12-02, http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/25,10384,122,144,html, 伝承園 - 遠野市, 岩手県遠野市 永遠の日本のふるさと遠野, 遠野市役所, 2009-11-28
- ↑ 主な収蔵品と調査研究 - 東北学院大学