蛇頭松姫大神
蛇頭松姫大神(じゃとうまつひめおおかみ)とは、舞鶴市字与保呂にある蛇切岩神社の祭神ともいえる女神。ただし「蛇切岩」の伝承は元の話から大きく改変されている、と管理人は考えており、改変の態様こそが重要と思われる神である。
蛇切岩神社の伝承
祭神は、蛇切岩。
「舞鶴市史」より引用(抜粋)
前半:
昔、多門院の黒部に、姉をおまつ、妹をおしもという姉妹がいた。おまつ、おしもの二人は、いつも与保呂の奥山へ草刈りに出かけていた。そこには美しく澄み切った池があった。おまつはそこで美しい若者と出会い、恋におちて逢い引きを繰り返すようになった。
おまつに縁談が上がったが、娘はそれを嫌った。ある日、山でおまつは妹に「私は今日限り家に帰らぬから、あんた一人で帰っておくれ」と言い出し、どうしても帰ろうとしなかった。そして、あっという間もなく身を踊らせて、池の中へ飛び込んでしまった。同時に、空がにわかに曇って雨がざあっと降り出した。今まで静かだった池の水が波立ち、そこに池いっぱいになった大蛇の姿が忽然と現れ、おしもの方を見たあと、池底深く姿を消してしまった。
おしもは、急いで家に帰り、一部始終を父親に告げた。父親は、どうしても娘の姿を見ずにおられない」と、与保呂奥の池畔まで駆けつけ娘の名を呼びながら泣くと、池の水が騒ぎ立っておしもが見た通りの大蛇が現れた。大蛇は父親をうらめしく見てそのまま池の中へ消えた[1]。
後半:
それから池の主の大蛇がなんの恨みがあったか、付近に仇するとの噂が伝わってきた。与保呂村の人々はいろいろと相談の結果、大蛇は殺してしまうほかはない、ということになった。しかし、その手段がなくて困っていたところ、一人の村人が「自分が見事に退治してみせる」といい、モグサで大きな牛の形を造り、その中に火を点じておいて池の中へ投げ込んだ。大蛇は好餌とばかりこのモグサの大牛を一口に呑み下した。モグサの火は次第に牛の体一面に広がり、大蛇が苦しみ出すと、空がにわかにかき曇り、豪雨が沛然と降り出した。大蛇が苦しんでもがき回り、のたうち回るにつれて池の水は次第に増し、洪水となって流れ出した。
大水の中に、大蛇の死体が見つかった。それが下手の岩の所に突き当たり、大蛇の体は三つに切断された。これは、おまつの化身だ、祟りだ、ということで、三つに切れた大蛇の頭部は奥の村の日尾神社(日尾池姫神社)に、胴のところは行永の橋付近の田んぼの中にあるどう田の宮(堂田神社)に、尻尾は大森神社(彌加宜神社)に祭った。大蛇の当たって切れた岩を蛇切岩と言った。
以来幾百星霜、与保呂村の境内に限って松の木が一本もない。それから日尾神社向こう側の山(宮山)の一部だけには、松の木がどうしても生えない。蛇切岩の割れ目の所に必ず姫蛇がいる。それがちょうど、天気予報のように、天候によって色を変える。晴れの日にはきわだって色が白く、雨の日には茶褐色を帯びるという[2]。
日尾池姫神社・舞鶴市与保呂
祭神は、天日尾神、国日尾神、天月尾神、国月尾神。式内社・笶原神社の論社か。「丹哥府志」に「笶原神社は今池姫大明神と称す」と、あるとのこと。(舞鶴市紺屋にある笶原神社の祭神は天照大神、豊受大神、月夜見神である。)蛇頭松姫大神の祠がある[3]。
「丹後国風土記」残闕には、
豊宇気大神の教えに依り伊去奈子嶽に天降った天村雲命が、豊宇気大神を祀ろうとしたが、泥水で神饌を炊くことができなかった。ここは豊宇気大神の坐します国であるから、清地を定めて大神を斎い奉らなければならないと言って母の天道姫命(天道日女命)が子の天香語山命に矢を授けた。そして矢を放ち留まったところが清き地である大神の神託があった。その矢は矢原山に到ったので、神籬を立てて豊宇気大神を遷し墾田を定めた(大意)[4][5]
とあるとのこと。
堂田神社・舞鶴市八反田南町
祭神は不明。「与保呂川」が大きく湾曲する地点にある[6]。南町の隣に「亀岩町」という町名が見える。かつては川の中に「亀岩」という岩があったと思われる。
私的考察
天日尾神:天照大御神・天道姫命、(国日尾神:天火明神)、天月尾神:月夜見神・天香語山命、国月尾神:豊受大神・蛇頭松姫大神として良いかと思う。天火明神は物部氏の饒速日尊と解している。国日尾神と天月尾神は同じ神として差し支えないのだが、敢えて太陽女神を月夜見神の上位(姉ではなく母親)としているところが海部氏のこだわりであろうか。豊受大神の夫神が天香語山命と想定されているのであれば、籠神社の奥宮である真名井神社の境内に天香語山命の石碑があるのも納得がいく。(確か昔見た記憶がある。)ということは、浦島太郎も暗に天香語山命である、という意図があるのだろうか。そして池とは地面にあるものなので、今池姫とは豊受大神のことなのだと考える。