高野御子神
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高野御子神(たかのみこのおおかみ)は、その神名が示すように丹生都比売神の御子神といわれる[1]。しかし後述のように、この神が関わった高野山開創伝承は、丹生氏に伝わる「神の贄のため二頭の犬を連れた狩り人の伝承」に由来すると見られている。そのため、本来は「祀られる神(丹生都比売神)」と「奉祀する神(高野御子神)」の関係であったと推測される[1]。なお、文献では古くは『日本紀略』延喜6年(906年)条に記載が見える。
空海への土地譲り伝説
丹生都比売神社に関しては、弘法大師空海が高野山金剛峯寺を開いた際に地主神たる丹生都比売神社から神領を譲られた、とする伝説が知られる[1]。高野山と丹生都比売神社の関係を語る最古の縁起として、11世紀から12世紀の『金剛峯寺建立修行縁起』がある[2]。これによると、弘仁7年(817年)に空海は「南山の犬飼」という2匹の犬を連れた猟者に大和国宇智郡から紀伊国境まで案内され、のち山民に山へ導かれたという。以上の説話は『今昔物語集』[原 1]等にも記載されており、説話における前者は高野御子神(狩場明神)、後者は丹生都比売神(丹生明神)の化身といわれる[1]。『丹生祝氏本系帳』には、丹生氏がもと狩人で神の贄のため二頭の犬を連れて狩りをしたという伝承があり、これが高野山開創に取り入れられたと見られている[1]。
空海の死後、その弟子達により丹生都比売神社の神領はさらに高野山の寺領となった[2]。丹生都比売神社が高野山に正式に帰属するようになったのは、10世紀末の高野山初代検校で第4代執行の雅真の頃とされる[2]。
注釈