チャンヤン
神話の抜粋
現世パート1
種の家は天上にあった。東方にいたゲルー(Ghed lul、土地神)の天上の家で、フーファン(Fux Fang、大地)が生み育てたが、ニュウシャン(Niu Xang、婆神)が種の家を焼いてしまった。その時、「古代の書」も燃えてしまい、古い三つの儀礼などが分からなくなった。しかし、種が東から川を辿ってやってきた。
シャンリャン(Xang Liang、女神)が西方の土地で、犂や鍬を使って水牛のシィウニュウ(Hxub Niux)と田畑を耕した。農作業に使った道具は様々な生き物などに変化した。シィウニュウは大岩に変じた。シャンリャンは木々を植え、池のそばにも植えて魚を育てた。
木々の中から巨大な楓香樹が現れた。楓香樹の下には様々な動物が集まったが、彼らは魚を食べてしまった。シャンリャンは楓香樹が魚を食べてしまったと避難した。楓香樹は盗賊の棲家とされて伐られてしまった。伐採時に出た鋸屑、木屑、樹芯(蝶々)、芽(蛾)、瘤(木菟、ghob web sx、猫頭鷹)、葉(燕、鷹)、梢はさまざまなものに変化した[私注 1]。
冥界パート
楓香樹の樹芯には蝶のメイバンメイリュウがあった。蛾の王がつついて開けた。蝶々は生まれて三日目でバンシャン(Bang Xang女神)のとこへ行き、育てられた。彼女は水泡と恋愛して12個の卵を産んだ。ジーウィー鳥が三年半、卵を温めて孵した。はじめに人類の始祖であるチャンヤン(Janged Yangb姜央)は生まれた。その後、雷公、龍、虎、蛇、象が生まれた。彼らのへその尾もさまざまなものに変化した。悪い卵は1年かけて老いた雌豚を食べる魔物のグーワンとなった。別の残りの卵は供犠用の祭椀となった。
現世パート2
チャンヤンと雷公は兄弟だが相続で争い、雷公は自分が得た土地に納得しなかった。そこで天に上って雹と雨を降らせてチャンヤンを溺れさせようと考える。チャンヤンは水田を耕そうとするが、牡の水牛を持っていなかったため、雷公から水牛を借りた。耕作が終わるとチャンヤンは水牛を殺して祖先を祀り、祖霊祭で水牛を食べてしまった。雷公は怒り、洪水を起こす、と言ったのだが、三日の猶予をもらえたので、チャンヤンはその間にヒョウタンを育てた。雷公が洪水を起こし、チャンヤンはヒョウタンに乗って逃れた。生き残ったのはチャンヤンとその妹のニャンニ(Niang Ni)だけだった。チャンヤンは竹の助言を得て、妹のニャン二を説得して結婚した。二つの臼を別々の山から転がして二つが一緒になったら結婚するなどの難題を乗り越えたのだ。二人の間に肉塊が生まれたので、それを切り刻み九つの肥桶に入れて九つの山に撒いた。すると肉片から人間が大勢生まれた。しかし、彼らはまだ言葉が話せなかった。そこで土地公を天井に派遣して秘策を得た。松明を点して山を焼き竹を燃やすと弾けて音がする。それを真似て人々は言葉を話し始めた。人々は一緒に住み、七人の爺さんは牛殺しの刀を、七人の婆さんは紡車を管理して暮らすことになった。[1]。
私的解説
チャンヤン神話は、登場する神々が多く、複雑で少なくとも2,3個の「祖神神話」が合わさって複合した神話と考える。その上、脱落している部分もあるように思う。また、植物を擬人化する、とうよりも、人間の話としたら残虐になりすぎる話を植物の話とすることで、残虐性を和らげようとする方向性がある気がする。人でないものから唐突に人が生まれたりする。ともかく、「メイパンメイリュウと蛾王」のエピソードを勝手に「冥界パート」と名付け、それ以前を「現世パート1」、以後の大洪水の部分を「現世パート2」と分けてみた。
現世パート1
「種の家」というのは、人間の植物化の表現である上に、少なくとも2人の人間の「死」についての神話と考える。その結果、重要な祭祀などに混乱が生じたとのことだ。ニュウシャン(Niu Xang、婆神)にもおそらく二重の意味があり、
- 炎帝型神を殺して、祭祀を混乱させたニュウシャン・母
- 黄帝型神(植物神、種の家)を殺して、焼いてしまったニュウシャン・姉娘
が含まれているように思う。
シャンリャンと水牛のシィウニュウの耕作譚は、シィウニュウ、魚は明らかに炎帝型神と考える。シャンリャンもニュウシャンと同様二重性があり
- 炎帝型神と共に耕作をして、これを殺してしまうシャンリャン・母
- 黄帝型神(楓香樹)を非難して殺したシャンリャン・姉娘
となるように思う。要は。ニュウシャンとシャンリャンは、同じ話を、異なる女神の事績として2回語っているように思う。殺された楓香樹から色々なものが発生する点は、中国神話の盤古にも似る。
冥界パート
蝶や蛾は、人に比べてとても小さいもので、この場合は「魂」のようなものを表すと考える。すなわち、メイバンメイリュウも蛾王もいったん「死んだ人の魂」を指すと考えるが、彼らが生前どんな名前だったのか、どのように亡くなったのかは語られない。
妻 | 夫・炎帝型 | 備考 | |
---|---|---|---|
生前 | シャンリャン・母(燃やされた女神) | シィウニュウ | |
死後 | メイバンメイリュウ(燃やされた女神の魂)(吊された女神) | 蛾王(シィウニュウの魂) | 魂の存在 |
次代 | ニャンニ(娘) | チャンヤン(シィウニュウの生まれ変わり) |
蛾王が「つつく」という行為は生殖行為と考える。彼らの交合からはさまざまなものが発生する。が、メイバンメイリュウは自力で自ら生み出した卵を温めることをしない。これは現実の蝶の生態を元にした話かもしれない。卵を温めるのは、ジーウィー鳥という鳥である。この鳥は「養母としての女神」に相当すると考える。イラン神話のシームルグに相当する霊鳥に類似しているといえようか。シームルグは民間伝承では雌とされることが多いように思う。
メイバンメイリュウと蛾王から、まずは人間のチャンヤンが誕生する。また次々と人間でないものも生まれる。これは、動物のトーテムを「身分階級」にあてはめることにして、「長男であるチャンヤン」はさまざまな権利を持つが、次男以下は長男の役に立つための動物も同然の身分である、ということを示すためのものではないだろうか。チャンヤン神話は、身分制度が発生して、かなり社会が階層化してきた時代に完成した神話だ、といえるかもしれないと思う。
また、メイバンメイリュウには燃やされた女神の魂と吊された女神の二重性があるように思う。蛾王は中国神話の蚩尤に相当する害虫の神と考えるが、これはシィウニュウ(前世)とチャンヤン(後世)をつなぐ中間的な存在であると考える。そして、蛾王が「つつく」という行為はアレンジされて、様々な各地の神話に取り込まれているように思うが、特に日本の神話では「女陰を突いて懐妊を促す矢」をはじめとして、好まれるパターンのように考える。
また、「死後の世界で婚姻が行われて、子孫(生まれ変わり)が再生される」という神話は、メソポタミア神話のエンリルとニンリルにはっきり現れているように思う。その他、ギリシア神話の「プロセルピナを掠うハーデース」のように、男神が強引に女神を妻にするために冥界に連れ去る、というパターンに変化して良く見られるように思う。そして、メイバンメイリュウの卵からは悪いものも生まれている。特に、「供犠用の祭椀」がチャンヤンの兄弟のように扱われる点については「鼎に描かれた饕餮紋」を想起させる。これもまた一つの独立した生き物のように考えられていた可能性がある。
現世パート2
バロン・ダロン神話では、アペ・コペンが「父親」として登場するが、チャンヤン神話では父親は蛾王という蚩尤的な羽虫となっており、大洪水から子供達を守ってはくれない。雷神もヒョウタンの種をくれるわけではない。チャンヤン自身が種の所有者として描かれる。まるでチャンヤン自身が「種の家」の管理者であるかのようにふるまう。
チャンヤンと雷神の対立の原因は相続と、水牛の処遇である。水牛もチャンヤンの弟なのだから、これを殺して祭祀を行うことは、人間が人間を殺して、祭祀を行い、その肉を食べる、のと同じ意味を持つ。バロン・ダロン神話と同様、この点だけはどんな雷神も許してくれないことのようだ。天上の神が許さない弟殺しを行って、兄が神の怒りを買う点は、まるで聖書の「カインとアベル」のようだと感じる。
また、農耕に必要な牛や水牛は炎帝のトーテムといえるため、チャンヤンが水牛を殺すエピソードは、「チャンヤンこそが炎帝を倒した英雄である。」という意味が暗に含まれるように思う。
現世パート2には、それまで登場していた楓香樹が登場しない。その代わり、竹がチャンヤンに助言を与えて、妹との結婚を後押ししてくれる。バロン・ダロン神話でアペ・コペンが担っていた役割を今度は竹が担っている。これは一種の「植物始祖神話」だし、楓香樹ではなく竹が先祖、といえる。イ族に竹の始祖神話があるので、その話が混じってしまっているように感じる。日本にも竹から生まれたかぐや姫の伝承がある。
竹を燃やすことで、それまで話すことができなかった人類が話すことができるようになった、のは良いのだが、誰か重要な先祖を「竹になぞらえて焼き殺してしまった」のではないか、とうかがえる伝承であると思う。現世パート1で「種の家」が焼かれてしまったのと同じことを意味する伝承が、ここでもう1回語られているように思う[私注 2]。
七人の爺さんと、七人の婆さんのくだりは、社会が階層化して、人々をまとめるリーダーというか、管理職が登場したことを示すように思う。「七人」という数字から、このリーダー達が天の中心の「北斗七星」になぞらえて選ばれたことが分かる。「牛殺しの刀の管理」とはどのような意味だろうか。「牛」に「刀(勿)」と書いて「物」と読む。「物」とは元々「牛を殺す刀」のことだったのだ。日本では、武器を管理し、軍事力を担う氏族を「物部氏」といった。物部氏の拠点である奈良県の石上神宮からは、北斗信仰を思わせる七支刀が出土している。
水牛を屠殺する祭祀
そもそもチャンヤンは何故弟の水牛を殺す祭祀を行ったのだろう。祭祀の意味を調べてみた。
水牛を屠殺する意味・コ蔵節
コ蔵節は、ミャオ族の先祖を祭る水牛祭りとのことだ。水牛を屠殺して、牛をあの世に追い立て、牛に病を持ち去ってもらったり、村人の祖先への想いを運んでもらって、祖先が村を加護してくれるように祈り願うもののようだ。これに関して、以下のような伝承があるという。
ワンという青年が、船に乗っていた時に暴風雨に遭い、命を落とした。彼の家族は、ブタを一頭殺しただけで簡単に葬式を済ませたが、立派な副葬品を添えなかったので、ワンの霊は死者が通る関所を越えることができなかった。しばらくすると、ワンの母親が奇病に罹り、長期間の治療を施しても治らなかった。
そこでゴウサ(占い師)を呼んで治療を施してもらったところ、ゴウサは、死んだワンのために、もう一度盛大な葬式を開き、もっとも大きな水牛を殺し、彼が好きだった歌舞を行うよう勧めた。ワンの家族が、ゴウサの言い付け通りにすると、母親の病はまるで奇跡のように良くなった――。
このことがあった後、ミャオ族は、「コ蔵病」という病があり、水牛を殺して先祖を祭ることではじめて、疫病や災害から逃れられると信じるようになった。[2]
プーセとヤーセ・オーストロネシア語族(ルア族・タイ)の伝承
ドイステープとドイカムの山の麓にラミンナコンという町があり、ルア族が住んでいた。山に、そこにはプーセ(セ爺)とヤーセ(セ婆)という鬼夫婦と子どもが住んでいた。プーセはドイステープ山の神、ヤーセはドイカム山の神だった。彼らは森の動物を食べていたが、狩りに来た村人たちも捕まえてはよく食べてい。鬼退治に兵士を送っても、全員食べられてしまい、恐れた村人たちがどんどん町を去るので町は荒廃してしまった。お釈迦様に助けを求めたところ、お釈迦様が鬼に殺生が良くないことを説かれ、森を守ること、そして果物や野菜を食べることを約束させた。ただ、これまで肉を食べていたので、1年に1度でいいから人間の肉を供えてくれと鬼は懇願した。(中略)結局、水牛を供えることになり、今でも毎年1回、ランナーの暦で9月14日に水牛を供える儀式が行われている。(水牛を生贄にするプーセ・ヤーセー、チェンマイ食いだおれタイ(最終閲覧日:24-12-07))
私的考察
どうやら、「水牛を生け贄にする」という意味は、元は人間の生け贄を捧げていたものを水牛に置き換えたもののようだ。そして、おそらく先祖の誰かが亡くなって、きちんと祀ってもらえなかったために、祟る鬼(幽鬼)となっていたものを慰撫して、特に疫病に対する祟りを抑えてもらおう、そして子孫を守護してもらおう、という意味があったと思われる。また、ミャオ族の伝承の中に、かすかではあるが、水牛を疫神に見立てて、疫神を黄泉の国に送ってしまおう、という思想が見える。
ルア族の伝承から、この先祖が「人肉を食べていた」事が分かる。また、ミャオ族の伝承から、この先祖が船に乗っていて、暴風雨で溺れ死んだことが分かる。これは、「大洪水」の神話を「伏羲と女媧が溺れ死んだ」として、その霊を慰撫するための祭祀と考えられていたのではないだろうか。管理人が考えるところの
- 伏羲型神と吊された女神が溺れ死ぬか何かで非業の死を遂げ、死後の祭祀をきちんと行わないと病を起こしたり、子孫に良くないことを起こすため、本来なら人肉を捧げて供養するところ、これを人類の兄弟ともいえる大事な水牛を代わりに捧げることで彼らを慰撫し、子孫に災いを起こすのではなく、守護をしてもらおう、という概念
なのだと考える。供養を行わないと、先祖は疫神としての祝融型神へと変わって災疫神になってしまうのだ。
また、先祖を植物化する傾向が強くなると、一般的な豊穣を求める祭祀が、「先祖(植物)を生き返らせる祭祀」ともなり得ないだろうか。植物とは、先祖かもしれないが、人の生活の役に立つものでもある。穀物や野菜は食料になるし、木や竹は加工すれば建材や道具、楽器にもなる。そして消耗品でもあるので、植物は収穫しては消費し、殺して加工し、ゴミになったら捨てて、また新たな植物の育成と収穫を求める、とその繰り返しである。だから殺しても、常に生き返って再生してもらう必要があるのも植物なのだ。先祖のもたらす加護に植物の死と再生の円滑さを求め、かつ先祖を植物に見立てると、「先祖が死と再生を繰り返さなければならない」ということになる。これを求める祭祀にも水牛や人身御供を捧げる必要がある、ということにならないだろうか。
チャンヤンは結婚に際して、「死んだ先祖の象徴」ともいえる竹に相談を行っている。人が普通の状態では物言わぬ竹に変化しているのは、それはその人が死んでいる、ということの象徴ではないだろうか。チャンヤンが肉塊から発生させた人類は言葉を発することができない。それは人類がまだ「死者」の領域にいることを示しているように思う。彼らを「生者」の側に引っ張るには、別の命が必要とされる、と考えられたのかもしれない。それで「物言う竹」は「生きているもの」とみなされて、生け贄にされ燃やされてしまうのだろう。「人類のための犠牲」という名目で。
よって、水牛などを「生け贄にする」という意味は
- 疫神に見立てて、これを殺して冥界に送る(厄払い)
- 死したる先祖の供物(食物)にする(供養)
- 新たな人類を誕生させるために引き換える必要がある魂(間引き(的な発想))
があるように思う。
まとめ
チャンヤンは大洪水を生き抜いた伏羲型神なのだけれども、弟を自ら殺しているし、相談役で親ともいえる「竹」を自分の都合で情け容赦なく燃やしたりしているので、文化英雄なのだけれども、祝融型神としたい。火や技術の神でもある祝融は、血縁よりも技術力を優先して物事を行う傾向があるように思うのだが、その起源はバロン・ダロン神話のダロンよりは、チャンヤンの姿勢にあるのではないだろうか。
チャンヤンの父ともいえる蛾王は、妻とつつく神なので祝融型神といえる。妻のメイパンメイリュウは吊された女神といえると考える。
私的注釈
関連項目
脚注
- ↑ 創世神話と王権神話 アジアの視点から、鈴木正祟、p115-117
- ↑ 貴州・ミャオ族のコ蔵節 10数年に一度、水牛の首を捧げる、高氷、人民中国(最終閲覧日:24-12-07)