イ族
イ族(イぞく、彝族(旧族名: 夷族、倭族), テンプレート:ピン音)は、中国の少数民族の一つ。2010年の第6次全国人口普査統計では人口は8,714,393人で、中国政府が公認する56の民族の中で7番目に多い。
名称
民族名の自称は「ノス」「ラス」「ニス」「ノポス」など様々な地域によって異なった呼び方をする。中国の古典文献に登場するこの民族の民族名は「夷」「烏蛮」「羅羅」「倮倮」など多様に存在し、蔑称の「夷」が通称であったのを、中華人民共和国成立以降に同じ音である「テンプレート:Lang」の字に統一した。テンプレート:Langは「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は中国側では蔑称である。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に蔑視的な要素を含んでいる。但し、漢字を全廃したベトナム側では今日でも差別的な意味合いはなくロロ族(テンプレート:Lang)と呼ばれている。
歴史
イ族は中国西部の古羌の子孫である。古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。南詔王国を建国した烏蛮族が先祖だと言われている。
精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もある。ただしそれらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族なのかは、明確には分別できない。
雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており[1]、人は黒イ(貴族は四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族)と白イ(白番の祖先はタイ系の稲作耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した)に分けられていた。白イと他民族(奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った結果、タイ系の民族やミャオ族や漢族なども含まれることになった)は奴隷として扱われたが、白イは自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。
また大涼山に棲むイ族にはピモの伝える歌に死後の魂が祖先のいた地へ戻る為の経路を表しているものがあり、それを遡ると長江上流へと行き着くため三星堆遺跡(長江文明とは異質な為四川文明とも言われる)を築いた集団の末裔とする説も存在している。
自称
イ族には多くの自称があるが、ノス(黒イ、四川大涼山など)、二(アシ、サニなど)、ロロホ・ララポ(白イ)の三大系統に大別される。このうちノス社会は、かつて大涼山が奴隷制社会であったことや、現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている。なお家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。
言語
文化
生活
主な産業は農業と牧畜業である[2]。農業では主に山間部で、トウモロコシ、米、ジャガイモ、麦、ソバ、豆類などを栽培し、ヤギや豚などの家畜を飼育している。伝統的な主食はツアンパという炒ったムギ粉を水で練ったもので、チベット族の食習慣に近い[3]。
- 結婚に関しては、古くからイ族の青年少年は、イトコすなわち自分の両親の兄弟姉妹の子のうち、異性の兄弟姉妹を意味する交差イトコを嫁の候補とする習慣を持っていた。イ族社会において、母親の兄弟は必ず別の氏族であり、同様に父親の姉妹は、他の氏族に嫁ぐのが原則となっていた。そのため、血族の中でも交差イトコは他人とみなされたのである。これに対して、親の同姓の兄弟姉妹同士の平行イトコ婚は厳しく禁じられていた。つまり、平行イトコ婚は、同じ氏族間の結婚と考えられていたからである[3]。
イ族は独自の暦であるテンプレート:仮リンクを持っており、これは1か月を36日とし、1年を10か月と余りの5日(閏年は6日)とする太陽暦である。
葬式
葬式に関しても、ナシ族やプミ族と同様、伝統的には火葬の習慣を持っていた。この習慣は、高原に居住する遊牧民の世界観につながるもので、イ族の出自を考えるうえで参考になるものといえよう。しかし、前近代の世界において火葬を行えるのは、強大な火力を得るために燃料を十分に使用できる豊かな身分に限られ、そうでない人々は、鳥葬もしくは土葬を行った。
祭祀
- 宗教儀式
- アシ集団に見られる密枝(ミジ)と呼ばれる神木を崇拝する神樹信仰や、祖先祭祀がある。
伝説では、古代アシ人たちが狩りに出かけた厳冬のある日、持っていた火種が雨風によって消されてしまい、寒さに苦しんだことがあった。人々の手足は凍え、老木の下に避難し、お互いに寄り添ってただ耐え抜くしかなかった。この時、ムドンと呼ばれる男が、仲間の輪から出て、朽ちた倒木の上にまたがり、棒で木をこすり始めた。三日三晩それを続けて、陰暦の2月3日、ついに火をおこすことができ、人々は再び暖をとり、温かい食事をすることができた。
ムドンはそれからアシ人の英雄となり、後に火神として崇められるようになった。そして、いつのころからか、アシ人は毎年陰暦の1月末から2月初めにかけて、「ムドンサイル」とアシ人の言葉で呼ばれる火祭りをおこなうようになった。
火祭りの前日には、村人はまず「ミジ」と呼ばれる儀式を行う。「ミジ」は「竜」のこと。この儀式は、厳粛なもので、女性は参加することができない。男たちは「ビマ」[私注 1]の指揮のもと、ブタを村の背後にある祭竜山まで連れていき、屠って「竜樹[私注 2]」に捧げる。ビマはその根元に祭壇をあつらえ、ブタの頭や白酒を供える。そして、五穀豊穣および村人と家畜の平安を祈る。
「ミジ」の儀式が終わると村中の男女が山に集まり、大鍋で食事を作り、皆で共に食べる。食事が終わると、村人たちは村に戻り、翌日の祭りの準備を始める。
翌日、門の上には厄除けのための木刀が、先を交わす形で重ねられる。また門では、列に並べられた柴が燃やされ、通行が塞がれている。これは「火門」と呼ばれ、火祭りに参加するために村に入る客はみな、火を飛び越えなければならず、これで厄除けができるとされている。客たちは宴席につき、酒や食事を楽しむ。食後、舞踏を鑑賞する。踊りに参加する村の男たちは、その前に化粧を施す。化粧には様々なものがあり、それには、動物をテーマにしたトーテミズムを感じさせるものもあれば、祖先やその霊に対する崇拝を表現したものもある。また陰部の前に彼らが神聖なものとしてあがめるひょうたんをつるし、性への崇拝を表す者もいる[私注 3]。
その後男たちは、老木の前に火神の像を据え、木の棒をこすって火をおこし、雄鶏を生け贄に捧げる。その後、男たちは新たに起こした火種と火神像をかついで村を練り歩く。村人はそこから火種を取る。そして盆の中にブタの脂身を供える。男たちは樹木神のように扮装する。行列が至るところ、その場は、はじけるようになる。例えば村のため池に着くと、ある者は水に向かって踊り、ある者はそこに飛び込んで踊りだし、ある者は、中の泥をすくい、互いの体に塗る[私注 4]。そして彼らの「馬」に水を飲ませる動作をする[私注 5]。
その時、火神像を担いだ四人の村人が広場からふと姿を消す。彼らは、村の外の林の中に火神像を捨て、その後、林の中を全力で駆け抜けて自分の家に戻る。アシ人は火神像が村の災厄をすべて持ち去ったことで、村の平安が守られると信じる[4][私注 6]。
- 火祭り・火把節
- イ族の最大祭りであり、毎年の旧暦6月24日~6月26日行う。火把節と呼ばれる。火把節は豊作を祈る祝祭で、歌垣も行われる[3]。
そもそもは村中総出で太鼓を鳴らし、たいまつをかざして田の回りを練り歩き、 害虫の退散を願うのが近年まで農村地帯で行われていた本来の姿であった。たいまつの灯りに虫を集めて送り出すのがねらいだったという。日本で言うところの「虫送り」である。日本の「虫送り」は時期、やり方、 名称などは地方によって異なるが、ほぼ5~8月ころ、わら人形を作り、村中総出で鉦・太鼓ではやしながらたいまつをかざして田の回りを練り歩く。 最後はわら人形を海や川に流して害虫の退散を願うのが一般的である[5]。
相撲
独自の相撲があり、相撲は彝語でバアジと言い、土俵は無く、地方によって相撲の取り方も違い、ある地方は相手を地面に倒したら勝ちで、ある地方は肩と頭先に地を触れたら勝ち。
競馬
イ族には、独自の競馬があり、競馬をイ語でムジと言う。
参考文献
- 『中国少数民族事典』(東京堂出版 2001年)
- 『涼山彝族の言語と文字』(三重大学出版社 2011年)
- 『言語学大辞典第4巻 世界言語編(下‐2)』(三省堂 1992年)
- 日本における中国イ族の神話・民話に関する研究
番組
関連項目
外部リンク
脚注
- ↑ 曾昭掄 訳 八巻佳子 『中国大涼山イ族区横断記』 築地書館 1982年 1958年に奴隷制を廃止したとする。
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 3.0 3.1 3.2 テンプレート:Cite book
- ↑ 雲南省彌 勒県西一郷・火祭り 炎に捧げる情熱、人民中国(最終閲覧日:24-11-19)
- ↑ イ族の火祭り(最終閲覧日:24-11-19)
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