阿字神社
人身御供
阿字神社は人身御供が謂れで成立した神社[1]とされ、伝承が残る。
宝永4年(1707年)『駅路の鈴』には、以下のようにある。下総国の6人の神女が下女「おあじ」を連れ京へ上る途中、吉原宿に泊まった。吉原宿には往来の女性を三股淵[注釈 1]に住む大蛇の生贄にする習わしがあり、うち1人を生贄に捧げるという。そこで下女のおあじは急いで京へ上り、朝廷より人形の雛形に強飯を添え淵に沈めよという宣旨をもらう。おあじは急ぎ戻り宣旨の通りにし、6人の神女も神楽を舞った。すると生贄は止んだという[2]。
この伝承のうち、人形の雛形と強飯と共におあじ自らも投身し生贄となるものも存在する[3]。おあじ投身の後に伝法村[注釈 2]の保寿寺の僧侶が生贄廃止を祈念し、大蛇もそれを誓い、人身御供は止んだ。村人は犠牲となったおあじを祀る神社を建立した。それが阿字神社であるという。
享保18年(1733年)『田子の古道』には、以下のようにある。三股淵[注釈 3]には大蛇がおり、毎年の祭には富士下方[注釈 4]の御池に生贄の少女を捧げていた。あるとき東国より7人の神女が上京のためやってきたが、その道中祭礼のための生贄として捕えられた。このうち御籤で最も若い「おあじ」が人身御供に選ばれた。
残りの6人の神女は上京を諦め柏原まで引き返したが、おあじを置いてきたことを恥じ浮島沼に投身してしまう。一方おあじは富士浅間宮の神力により大蛇が鎮まったため難を逃れ、6人の後を追う。6人の死の次の日のことであった。しかし神女らの死を知り、失意からおあじも自死する[4]。それを知った見附宿[5]の老人がおあじを氏神として祭った。それが阿字神社である。また神女6人も柏原の地で祭った。それが六王子神社である。
文政3年(1820年)『駿河記』には、以下のようにある[6]。三股淵には大蛇が棲んでおり、毎年生贄を捧げていた。ある年下総国の6人の巫女が上京する道中、柏原の地で里人により捕縛される。巫女の下女であった阿字はこれが生贄に対する備えであることを知り嘆き、里人に暇を請い上京し朝廷へ報告する。朝廷より雛形を賜り祭祀を示された阿字は急いで戻り、三股淵に雛形を供え祭祀を行い、6人の巫女らは神楽を舞った。これ以後は生贄を取ることは止んだという。
文久元年(1861年)『駿河志料』には、以下のようにある[7]。毎年里人が旅人の女子を捕え三股淵へ生贄に捧げていたが、あるとき巫女6人を捕えた。巫女の下女であった阿兒(あじ)は嘆き、京に上り教えを請い、教えの通り人形を供することで鎮めることに成功する。人々はおあじを祀り、また巫女6人についても柏原の地で祀ったという。
六王子神社については、「六皇子社阿字神生贄淵[注釈 5]のこと、近世里人の説更に信じがたし」とあり[8]、また祭神は「詳ならず」としつつも浅間第六御子とする[7]。
各史料で差異はみられるものの大筋は同じであり、旅人を三股淵の大蛇の生贄に捧げている点、それが女子である点、大蛇に対する供え(主におあじの力)により生贄が止んでいる点は共通している。また富士浅間の神力も強調されている[9]。
神事
慶安3年(1650年)の奥書を持つ「富士本宮年中祭礼次第」に浜下り神事として「あちかみ参詣、大宮司殿・庶子衆」とあり[13]、富士山本宮浅間大社の富士大宮司および庶子らが浜下りの際に参詣していたとある。また「古来所伝祭式」に「大宮司・公文・案主富士丘二詣デ、正鎰取祓ヲ修ス。次にアヂ神に詣デ帰テ斎戒ス」とあり[14]、鈴川の富士丘(富士塚)に詣でた後に阿字神社に参詣していたことが記される[15]。
また『駿河志料』に阿字神社について「大宮浅間四月十一月申日祭祀前海辺祓潔のとき、此社を拝する例なり〔大宮祭奠次第記に見ゆ〕」とあり[7]、富士大宮司・社人が4月と11月の海辺祓潔の際に阿字神社へ参拝していたと記される[16]。また海辺祓潔の垢離の後、阿字神社に近接する富士塚に参詣していたと記される[17]。
この浜下り神事と海辺祓潔は同一視されている[18]。
私的解説
百人一首で有名な「田子の浦」の阿字神社である。田子という地名より、愛知県一宮市にある阿豆良神社との関連が示唆されるように思う。祭神の「おあじ」とは、本来天甕津日女命あるいは同じ女神と推察される伊豆能売だったのではないか、と思われる。天甕津日女命は名前から「北斗の女神」だったと思われ、「おあじと6人の神女」も北斗の女神たちと思われる。
本来は、治水のために、女神に見立てた巫女たちが舞を奉納する、という祭祀があったものが、いつの間には「旅の娘たちを捕まえて生け贄に捧げる」という祭祀に変換されてしまったものと思われる[19]。
天甕津日女命は賀茂系氏族の祖神である赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命、阿遅鉏高日子根神の妻神という格式の高い神である。元々は阿字神社と六王子神社のどちらかが「上の宮」「下の宮」と呼ばれる関係であり、「上の宮」に赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命と妃神、「下の宮」に阿遅鉏高日子根神と妃神、という形式で祀られていたものが変遷の結果、現在の形になったものと考える。非常に格式の高い神社だったので、祭祀の際に富士山本宮浅間大社の関係者が参詣するのが常だったのではないだろうか。
参考文献
- Wikipedia:阿字神社(最終閲覧日:24-11-17)
- 中山太郎, 1935, 補遺日本民俗學辭典, 昭和書房
- 浅間神社社務所, 1973, 浅間文書纂, 名著刊行会
- 野本寛一, 1976, 富士の信仰と文学, 地方史静岡6, p20-39
- 静岡県, 1993, 静岡県史 資料編24 民族2
- 荻野裕子, 2006, 富士講以外の富士塚 -静岡県を事例として-, 民具マンスリー38, p1-14
- 富士市教育委員会, 2018, 鈴川の富士塚, 富士市文化財調査報告書
- Wikipedia:六王子神社(最終閲覧日:24-11-17)
関連項目
注釈
脚注
- ↑ 中山|1935, p268-269
- ↑ 富士市, 2018, p79
- ↑ 静岡県, 1993, p164
- ↑ 富士市, 2018, p79-80
- ↑ 現在の阿字神社付近に位置した宿, 富士市, 2018, p8
- ↑ 『駿河記』巻二十四富士郡巻之一「柏原」
- ↑ 7.0 7.1 7.2 『駿河志料』巻之五十二富士郡二「鈴川」
- ↑ 『駿河志料』巻之五十一富士郡一「青嶋」
- ↑ 富士市, 2018, p80
- ↑ 大和岩雄『鬼と天皇』97頁、白水社、1992
- ↑ 松前健『松前健著作集 第7巻 日本神話と海外』312頁、おうふう、1998
- ↑ 松前健『神々の系譜―日本神話の謎』106頁、吉川弘文館、2016
- ↑ 浅間文書纂, 1973, p24
- ↑ 浅間文書纂, 1973, p58
- ↑ 荻野, 2006, p4-5
- ↑ 富士市, 2018, p81
- ↑ 野本, 1976, p29
- ↑ 富士市, 2018, p56
- ↑ 意図的なものか?